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経済偉人伝 早川徳次(シャープ創業者)(61)

 徳次は大阪の日本文具製造で技師長として半年間、働くことになっている。他にも独身者ばかり14人。12月に入ると、先に1人で大阪に向かった。

 東京駅のホームには政治、登鯉子、彦太郎、静子、熊八、芳松夫妻、巻島夫妻、浅田洋次郎、後から大阪に来る従業員たち、東京の工場に残る従業員たち、皆が見送りに来た。誰もが押し黙って、重苦しい空気だ。徳次は東京を、ありし日の早川兄弟商会を、死んだ妻や子供のことを思った。
 洋次郎は徳次に、大阪に着いたら心斎橋の石原時計店を訪ねるようにと、紹介状を渡してくれた。洋次郎の縁戚だった。大阪に着くとすぐ、石原時計店に石原久之助を訪ねた。石原は徳次を歓迎し、親身になって世話をしてくれた。徳次が従業員14人と住む阿倍野の借家を紹介したのも石原だ。

 翌大正13(1924)年、正月が過ぎると後続の14人が到着し、賑やかな借家住まいが始まった。徳次は日本文具製造に譲ったシャープペンシルの事業が軌道に乗ったら、この大阪で金属関係の事業を起こすことを考えていた。それで休みの日には再起するための土地を探した。大阪で知り合った人々に、どこかいい土地があったら紹介してほしいと頼んであった。
 後にシャープ発祥の地となる猿山村字田辺(現・大阪市阿倍野区西田辺)を紹介してくれたのも、そんな知人の1人だ。ある春の日に案内してもらうと、東に山々を望み、近くに学校が多い、のどかな田園風景の広がる田辺を気に入り、ここを再生の地にすることを決心した。坪当たり6銭、235坪の土地を10年契約で借りた。
 工費2500円をかけ、27坪の工場兼事務所と10坪の住宅を建てた。8月末で日本文具製造を辞めた徳次は、日本文具製造で働く元従業員たちに「独立することになったが、私と一緒に来たい人は付いておいで。日本文具にとどまっても、私の作ったシャープペンシルなのだから、気兼ねして無理に私の方に来ることはない。私の所に来てもとても今と同じ給料は払えそうにないから、来るにしてもそれだけの覚悟をしてもらいたい」と言った。

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