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「時代」を彩った男と女・あの人は今 元自転車選手・長義和さん

 長義和の名をご存知だろうか? もし、この人が競輪界に入っていたら中野浩一の世界選手権10連覇はなかっただろうといわれる超実力者でありながら、悲運に泣いた伝説のスプリンターだ。モスクワ五輪に関する悲劇の選手としてこれまで数々の書物で語り継がれた他、NHK朝の連続テレビ小説「やんちゃくれ」にも長役が登場するなど日本の五輪の歴史を語る上で欠かせない選手である。

 53年、大阪府で生まれた長は自転車競技で頭角を表し、72年、ミュンヘン五輪に出場。4年後のモントリオール五輪ではスプリント(当時はスクラッチ)で日本人選手初の6位入賞を果たした。翌77年、日本競輪学校第41期に合格したが、モスクワ五輪への夢が捨てきれずに競輪学校を辞退して五輪に照準を絞った。
 「ちなみに、この時の同期合格者には中野、滝沢正光、井上茂徳という後の競輪界大スターが名を連ねていました。その中でも長の実力はずば抜けていたんです。まさに日本一のレーサーでした。それでも長に迷いはなかったんです。長はこの時すでに競輪学校受験資格上限の24歳であったため、競輪学校を辞退したらその後の競輪界への道は閉ざされることは覚悟していました。プレオリンピックでも3位に入り、モスクワでのメダルは確実視されていました。まさか、そのモスクワがボイコットされるとは…」(当時の自転車関係者)

 ソ連のアフガニスタン侵攻問題でアメリカが西側諸国にモスクワ五輪ボイコットを呼びかけたことを受けて日本も同調し、長の夢は無残にも打ち砕かれたのだった。柔道の山下泰裕、マラソンの瀬古利彦、レスリング・高田裕司らと並んでモスクワのメダル候補だった長にとっては最悪の事態となった。
 競輪界に行く道も閉ざされた長はその後は、島野工業(現シマノ)に入社。一社員として、デュアルコントロールレバー開発に携わり、「世界のシマノ」ブランド確立を影で支えた。
 「本人は現役に未練はなかったように振舞っていましたが、競輪学校同期生の活躍を見るのはつらかったと思いますよ。長がモントリオール後に競輪界入りしていれば、中野の世界自動車選手権10連覇はまずないだろうと言われてましたしね」(前出関係者)
 さらにその後は、意外な道に進む。現在、和歌山県田辺市にて自営でパン屋を経営し始めたのだ。天然酵母の国産小麦を使ったパンを自ら焼くというこだわりように長らしさが伺える。しかし、昨年4月、サイクリング中に自動車にはねられ、肋骨を折る重傷を負う不幸に見舞われた。自転車競技の歴史人ともいえる長がサイクリング中に事故とはとても皮肉なものだ。

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