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俺たちの熱狂バトルTheヒストリー〈神格化されたカール・ゴッチ〉

 「カール・ゴッチは本当に強かったのか?」とは、プロレスや格闘技ファンの間でたびたび起こる議論である。ゴッチの技術は“互いに組み合ってから闘う”という、レスリングのグレコローマンスタイルをベースとしたものであった。
 よってそれだけを頼りとしたときには、打撃やタックルで相手との間合いを詰めることから始まる総合格闘技において、その技術を発揮する前に制される公算が高い。
 だが、仮に全盛時のゴッチが総合に挑むことになれば、これに対応する新たな技術を習得することもあるわけで、結局「ゴッチの技術だけでは勝てないが、ゴッチ自身が通用したかどうかは不明」としか言いようがない。

 ゴッチの強さを問うならば、それよりも“同時代における突出性”から見るべきだろう。ルー・テーズが「サブミッション技術では私の上をいく」と認め、力道山はその初来日時に「強けりゃいいってもんじゃねえ」と愚痴りながらも、以後、日本プロレスの若手育成コーチとして招聘した。
 一時期はリングを離れてハワイで清掃員として働いていたゴッチを、再び呼び戻したのは国際プロレスの吉原功社長。その理由は「当時、世界屈指のテクニックを誇るビル・ロビンソンを招聘したものの、張り合える強豪がいないから」というものだった。
 こうした“状況証拠”からしても、ゴッチの当時における優越性はうかがえるが、それでも疑問の声が上がるのは、良くも悪くもアントニオ猪木との関係によるものではないか。

 旗揚げ当時の新日本プロレスは、外国人選手の目玉がいなかったことから、猪木と師弟関係にあったゴッチを“プロレスの神様”と持ち上げた。これは相対的に直弟子である猪木の評価を高めるのと同時に、“世間はNWA王座を最高峰というが本当に強いのはゴッチ”と、間接的に対抗団体の日本プロレスや全日本プロレスの脚を引っ張る意図があってのものだった。
 「もちろん、ゴッチ自身は“神様”を自称したことなど一度もなく、新日と猪木を誇大に見せるため、ゴッチを実態以上に神格化して宣伝に使った部分はあるでしょう」(プロレスライター)

 では、実際の試合ぶりはどうだったか。前出の国際プロレスにおけるロビンソン戦では、現代の視点からするとやや地味ながらも、テクニックを競い合う好勝負を展開。5度の対戦はいずれも時間切れの引き分けに終わっている。
 「フルネルソンを力で強引に外したり、逆エビで絞り上げたりと、ゴッチのパワーファイターとしての一面も垣間見られます」(同)

 新日での猪木戦はどうか。こちらも5度の対戦で、ゴッチは3勝2敗と猪木に勝ち越している。
 中でも有名なのは1972年3月6日、大田区体育館での新日旗揚げ戦で、ゴッチ必殺のジャーマン・スープレックスに対しては、辛うじてロープに逃れた猪木だが、直後の卍固めを力で外したゴッチは、そのまま猪木を持ち上げてリバース・スープレックスで3カウントを奪っている。当時、ゴッチは48歳。猪木は旗揚げによる心身の疲労があったとはいえ、29歳と旬を迎えたレスラーである。
 また、自身の伝授したジャーマンを弟子の猪木が返し、直後にやはり自らが伝授した卍固めを破ってみせるという、師弟ならではのストーリーを演じたあたり、決して強さだけを追求する頑固一徹のレスラーではなかったようだ。

 続くシングル第2弾、同年10月4日、ゴッチの持つ“世界最強ベルト”を懸けて行われた蔵前国技館での一戦も、場外でゴッチの放ったジャーマンを猪木がかわしてのリングアウト勝ちと、結果こそやや不透明ながら、全体的には見せ場はたっぷりだった。
 「激しいバックの取り合いなどレスリングのムーブもありながら、ゴッチとしては珍しいワンハンド・バックブリーカーやダブルアーム・スープレックスなどを披露しています。キーロックを仕掛けた猪木をゴッチがそのまま持ち上げるという、のちにおなじみとなるムーブも見られました」(同)

 神格化されたストーリーばかりが後付けで語られるものの、いい意味で“普通のレスラー”の一面も持っていたのだ。

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