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人が動く! 人を動かす! 「田中角栄」侠(おとこ)の処世 第57回

 総理大臣に就任、「日本列島改造計画」の推進、実施に踏み切ったが、結果、土地と物価の高騰を招き、計画そのものの中止をやむなくされた苦境の田中角栄だったが、メゲることなく政権浮揚策を外交に求めた。昭和48年9月26日、16日間の日程でフランス、イギリス、西ドイツ(現・ドイツ)、ソ連(現・ロシア)への外遊に出発したのである。
 田中は、「大名行列はやらない。カバン一つ、同行は秘書官とSPだけで十分。それで列強と交渉する」と意気込みを語っていた。その狙いは「資源外交」で、仏では原子力発電所のためのウラン濃縮工場に関する共同声明を発表。英と西独ではそれぞれ北海油田の共同開発と原発の共同開発に関する合意文書を交わした。

 次いで向かったのが、鳩山一郎に次ぐ戦後2人目の首相としての訪問となるソ連であった。ここでは、同行記者のこんな証言がある。
 「モスクワ入りする前、田中は言っていた。『シベリア開発には協力するが、狙いは一つ、“北方領土(歯舞、色丹、択捉、国後)”の返還だ。他のテーマは話す気はない』と。ちなみに、経済協力としてのシベリア開発では、田中らしい知恵が働いていた。シベリアには多くの風倒木寸前の樹木があり、これを日本の木材価格の3分の1くらいで引き取り、それを国内の住宅建設に使おうとしていた。結局、交渉相手のソ連のトップ、ブレジネフ書記長が北方領土問題で言を左右して時間がかかり、“木材買い付け”話まではいかなかったが」

 その北方領土返還交渉は、相手がなにしろタフ・ネゴシエーター(強力な交渉者)として鳴るブレジネフだけに難航した。
 そもそもこの問題は、日本側が昭和31年10月に時の鳩山一郎首相らを全権とし、「戦争状態の終結」「外交関係の回復」をはじめ「平和条約締結のための継続交渉、並びに条約締結後の歯舞・色丹両島の日本への引き渡し」など10項目をソ連側と署名した「日ソ共同宣言」に端を発する。
 しかし、その後、ソ連側は平和条約締結を逡巡、北方領土返還交渉は暗礁に乗り上げたままになっている。
 昨年暮れ、安倍晋三首相がロシアのプーチン大統領との首脳会議で返還交渉に意欲を示したが、プーチンは歯牙にもかけず帰国してしまったのは読者諸賢にも記憶に新しいところだろう。

 さて、田中とブレジネフ書記長との交渉は「火の出るようなやりとりだった」と、前出の同行記者は続ける。ブレジネフは日本側の経済協力問題には応じるが、いざ田中が領土問題に入ろうとすると、すぐ話題をそらしてしまうのだった。
 「田中はソ連滞在中、イラ立ちを隠さず度々ウオッカをあおっていた。共同声明を出す最後の首脳会談は、凄まじい応酬だった。田中は共同声明に『“領土”の文言を入れないなら経済協力は無理、声明を出さずに帰国するッ』と迫る一方、日本側の案である『第2次大戦からの未解決の問題を解決して平和条約を締結したい』と畳み掛けた。ところが、ブレジネフもさる者、“問題”の意味が領土問題に絞られると警戒、“諸問題”とせよと切り返してくる。“諸問題”なら経済協力問題を含むとの言い分だったようだ。そこで、田中は求めた。『分かった。それでは“諸問題”で結構。それなら、“諸問題”に領土返還問題も含まれていると解釈したい。それでよろしいかッ』と」

 ついにブレジネフは田中の迫力、粘りに根負けしたか、「領土」の文言を入れることは最後まで拒否したが、「諸問題」とした中に、「領土」が含まれていることを口頭で了解したのだった。結果、共同声明は、「双方は第2次大戦のときからの未解決の諸問題を解決して平和条約を締結することが両国間の真の善隣友好関係に寄与することを認識し…」などとなったのである。
 以後、先の安倍・プーチン会談を含め、歴代のわが政権は平和条約締結、北方領土返還問題にチャレンジしたが、この田中・ブレジネフ間の共同声明から40年以上経過しているにもかかわらず、1ミリたりとも進展、成果を見せていない。田中以後の歴代政権の“腕力”の乏しさも、また見ざるを得ない。

 さて、ソ連訪問でいささか成果を得たとの認識だった田中は、年が明けた昭和49年1月、改めて「資源外交」を秘めた親善外交としてのASEAN(東南アジア諸国連合)国のフィリピン、タイ、シンガポール、マレーシア、インドネシア5カ国歴訪に出た。しかし、当時の日本の経済進出に対する不満は各国に渦巻いており、「さっさと帰れ、エコノミック・アニマル!」などのシュプレヒコールを浴びるなど散々、歴訪は完全にウラ目に出たのであった。
 加えて、窺っていた内閣の第2次改造もできる状態になく、前年から患っていた顔面神経炎も治らずで顔もヒン曲がってしまった。さすがに、田中も弱音を吐いた。「顔が曲がったのは神のおぼしめしかな。前世の宿縁というものかねぇ…」

 その内憂外患の田中に、もう一つの暗雲が忍び寄っていた。「金脈」追及というぶ厚い雲が“豪雨”を伴っていることを田中はまだ知らなかった。
(以下、次号)

小林吉弥(こばやしきちや)
早大卒。永田町取材46年余のベテラン政治評論家。24年間に及ぶ田中角栄研究の第一人者。抜群の政局・選挙分析で定評がある。著書、多数。

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