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愛知県西三河地方の伝説 「熊野が松」

 平安時代末期頃、遠州国池田宿の長に美しく、頭も良い娘がいた。娘の名は熊野といい、久しく平宗盛の側に仕え、都住まいをしていた。治承4(1180)年、老母の病が重いという国元から知らせが届いた。熊野は母の手紙を携えて、宗盛にいとまをこうが、これを許さなかった。その代わりに、東山での花見の共を命じられる。人々は春の装いで色めき立っていたが、熊野の心は重かった。酒宴の場で熊野は舞うことになるが、にわかの雨で散りゆく桜の花を見ると、母の命が思いやられ、涙ながらに心情を和歌に詠んだ。

 「いかにせん みやこの春もをしけれど なれしあづまの 春やちるらん」
 さすがに宗盛も哀れに思い帰郷を許した。しかし、熊野の懸命な看病にも関わらず、老母は亡くなった。母の葬儀を済ませると、宗盛の待つ都へ戻ることにした。ところが、衣の里(愛知県豊田市)まで来たところ、源氏と平氏とで大きな戦が行われ、平氏一門は西の方に追いやられ、滅ばされてしまったという事実を知ることになる。母を失い、主人であった平宗盛も戦死してしまったことを思うと、悲しみは深くなるばかりであった。

 熊野は、この衣の里に落ち着くことにした。大きな松の木の側に粗末な草庵を結び、髪を下ろして尼になった。そして、毎日宗盛や平氏一門の菩提を弔う為にお経を唱えて暮らした。建久9(1198)年5月3日、この地で天命を全うした。その後、熊野の住んでいた庵の側に生えていた大きな松は「熊野が松」と呼ばれるようになった。現在、松の木は枯れ果て、愛知県豊田市十塚町にある駐車場の片隅に「熊野が松伝承地」という標柱だけが残っている。

(皆月 斜 山口敏太郎事務所)

参照 山口敏太郎公式ブログ「妖怪王」
http://blog.goo.ne.jp/youkaiou

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