元々は歌手として活動をしていて、1958年に『お座敷ロック』でデビューを果たす。地道な歌手活動をして、61年に『おひまなら来てね』が大ヒットした。翌年には、その曲で『紅白歌合戦』にも出場し、3年連続出場となった。63年の『紅白歌合戦』では『一週間に十日来い』を歌い、85.3%という驚異的な視聴率を記録。人気も絶頂になった頃に結婚を発表して、引退することになってしまった。
しばらく芸能界を離れていたのだが、数年後に離婚して芸能界に戻って来ることになった。これまで歌手として活躍していた頃は、まだ私が生まれる前のことなので、実際に体験していないことだが、復活した70年代の半ばの頃は、私も小学生になり、ようやく五月みどりの存在を知ることになったのだ。初めて知ったのは『クイズダービー』(TBS系)の解答者で出演していた時である。キレイでセクシーなおばさんが出ているというイメージだったが、なんとなく毎週のように番組を見ていたので、気になる存在になっていた。当時、『五月みどりのかまきり婦人の告白』(日活)というポルノ映画に主演していたのだが、小学生にとっては未知の世界で、まさか映画でヌードになっているなんて思ってもいなかった。
数年が経ち五月みどりのこともすっかり忘れていたのだが、81年に『ザ・買物ゲーム』(テレビ東京)という番組の公開収録を新宿のスタジオALTAに観に行った時に、五月みどりがゲスト出演していたことで、昔の記憶が蘇り、五月に会いたいという気持ちが芽生えていったのだ。
実はこの公開収録の時にちょっとしたハプニングに遭遇してしまった。というのは収録の直前にトイレに行かせてもらったのだが、トイレの帰りに間違って出演者の楽屋に迷い込んでしまった。その時に出演者の五月みどりと偶然に遭遇したのだ。そこでサインをもらい写真まで撮らせてもらったのだ。完全に違反行為だったが、そばにいたマネージャーも内緒でやってくれたので、これまで以上に五月みどりという存在を意識するようになってしまった。
五月といい思い出ができたことで喜んでいると、83年に新曲を発売することになった。タイトルは『熟女B』である。当時は中森明菜が『少女A』を歌っていた頃であり、そのヒット曲をもじったパロディーソングである。その直後には、ポルノ映画『ファイナル・スキャンダル 奥様はお固いのがお好き』(日活)に主演することになるのだが、中学時代の私はポルノ映画館に行く度胸もなかったので、封切り時には見ることができなかった。
それから約1年後に、池袋北口にっかつ劇場(現シネロマン池袋)という映画館でリバイバル上映をすることになったことを知って、高校生になった私は、ちょっと背伸びをした格好をして初ポルノ映画館を体験することになった。すでに45歳という年齢で完全な熟女だったが、若かった私にとっては大きな刺激があり、五月みどりの裸は常に頭の中に描かれていた感じだった。
ちょっと失礼な言い方かもしれないが、私の中ではエロいおばさんというイメージがあった。それから数年が経った90年代後半から私は『特命リサーチ200X』(日本テレビ系)でリサーチャーの仕事をするようになり、日本テレビに頻繁に行くことになった。当時は同じ日本テレビで『伊東家の食卓』の収録が行われていたことで、レギュラー出演していた五月みどりを日本テレビで頻繁に見かけていた。しかし話しかける勇気もなかったので、すれ違うだけで終わってしまった。
かなり後悔はあるが、いつかもう一度会ってみたい気持ちでイッパイだ。もう35年も前の話しだが、とりあえずサインをもらって写真を撮らしてもらったお礼を言いたいと思う。もちろん覚えているはずがないが、いつかそんな日が来ることを楽しみに待ってみたいと思う。
(ブレーメン大島=毎週土曜日に掲載)
【ブレーメン大島】小学生の頃からアイドル現場に通い、高校時代は『夕やけニャンニャン』に素人ながらレギュラーで出演。同番組の「夕ニャン大相撲」では元レスリング部のテクニックを駆使して、暴れまわった。高校卒業後は芸人、プロレスのリングアナウンサー、放送作家として活動。現在は「プロのアイドルヲタク」としてアイドルをメインに取材するほか、かつて広島カープの応援団にも所属していたほどの熱狂的ファンとしての顔や、自称日本で唯一の盆踊りヲタとしての顔を持つことから、全国を飛び回る生活を送っている。最近、気になるアイドルはNMB48の三田麻央。