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俺達のプロレスTHEレジェンド 第39R “力道山2世”になれなかった男〈大木金太郎〉

 1974年、アントニオ猪木とのシングルマッチに臨んだ蔵前国技館のリング上、大木金太郎の羽織るロングガウンの背中には“キノコ雲”の絵柄があしらわれていた。今なら原爆被害者への配慮から「不謹慎」との誹りを受けそうだが、この当時“原爆”というワードは「破壊力」の比喩表現にすぎなかった。
 ディック・ザ・ブルーザーの得意技「アトミックボムズアウェイ」などは、和訳すればそのままズバリの“原爆投下”。韓国人である大木が自身の必殺技である一本足頭突きを「原爆頭突き」と名付けたのもそんな風潮からのもので、特に日本に対する挑発の意図があったわけではない。

 同じ半島の血を引く力道山の活躍に憧れて、'58年、29歳にして韓国から日本へと密入国した。力道山の計らいで強制送還を免れ日本プロレス入団を果たすと、その1年後に入団した馬場正平、猪木寛至とともに“若手三羽烏”と称されることになる。
 一日の長もあり、馬場や猪木をグラウンドで極めるだけのテクニックを持ち合わせてはいたが「韓国人はパッチギ(頭突きの朝鮮語)が強い」とのイメージから、これを鍛えることを力道山から命じられ、自ら鉄柱に額を叩きつけるなどムチャな特訓を積み重ねた。

 '63年、心のよりどころだった力道山が亡くなると、韓国へ戻って『大韓プロレス』を旗揚げ。現在の韓国大統領・朴槿恵の父である当時の朴正煕大統領がプロレスファンだったことから、このとき大木は多大な庇護を受けることになった。欧米選手をなぎ倒して国民に希望を与えるという、日本での力道山と同じ役割が、大木も韓国において求められたのだ。
 それこそ試合前にはパレードが催され、会場は軒並み超満員。韓国プロレス界のエースとして大木の未来は安泰かに思われた。

 しかし、日本で馬場、猪木が独立したため日プロに呼び戻され、繰り上がりの形ではあるが、日プロでトップに立つことになる。
 '72年には、ボボ・ブラジルとの「頭突き世界一決定戦」を制してインターナショナルヘビー級王座も獲得。名実ともに力道山の正当後継者となった。

 だが、エース大木に対する一般ファンの目は厳しかった。
 多くの在日朝鮮・韓国人のレスラーたちがその出自を隠していたのとは異なり、大木が韓国出身ということは公に知られていたためなのか、これを積極的に応援しようという機運はとうとう生まれることなく、日プロは急速に衰退。ほどなくして崩壊となる。
 大木は他の日プロ勢とともに、吸収合併される形で全日へ入団するも、中堅扱いへの不満から退団。フリーの立場となった大木に求められたのは、師・力道山のようなヒーロー象とは真逆の“完全なヒール役”だった。

 冒頭の猪木戦の前には、対戦直訴のために土足で猪木宅に上がり込む狼藉を働き、試合開始のゴングが鳴る前から猪木の鉄拳制裁を受ける。ゴツゴツとした展開が続いたこの試合、大木は頭突きの連打で一時優位に立つものの、最後は猪木のバックドロップ一発でマットに沈んだ。
 猪木快勝に沸く中で、日プロ崩壊から続く感情のもつれをすべて許し合うかのように抱き合った大木と猪木。日本プロレス史上屈指の名場面の一つだろう。

 その後は全日へ転戦し、ヒールとしての立ち位置を確立しつつあったが、一方韓国においては苦境が迫っていた。'79年、大木の最大の庇護者だった朴正煕大統領が暗殺されたのだ。
 次に就任した全斗煥大統領は、正反対のプロレス嫌い。軍事政権下にあった当時の韓国で政権から目を付けられれば、もはや居場所はなかった。

 活路を見出そうと加入した国際においてはラッシャー木村とのWエース扱いとされ、インター王座の防衛戦やAWA王座への挑戦も果たしたが、1年を待たずに離脱。
 '82年には、かねてからの首の故障の悪化により事実上の引退となった。

 力道山2世を目指した大木がついぞこれをかなえられなかったのは、運命の巡り合わせか、天賦の才によるものなのか、あるいは国籍の壁だったのか…。今となっては知る由もない。

〈大木金太郎〉
 本名は金一(キム・イル)。1929年、日本統治時代の朝鮮生まれ。'58年、日本に密入国した翌年に日本プロレス入団。'63年には並行して韓国で『大韓プロレス』を旗揚げ。以後、全日、新日、国際で活躍。'82年に引退。2006年死去。

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