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俺たちの熱狂バトルTheヒストリー〈“掟破りの空手家”佐竹雅昭〉

 80年代後半から90年代初頭、佐竹雅昭はコアな格闘技マニアの注目を一身に集めていた。
 所属する正道会館が主催したオープン大会『全日本空手道選手権』において、1987年から3連覇。極真空手主催の大会に参加を表明したものの、申込書類の不備という不可解な理由で出場がかなわなかったときは、「佐竹に優勝をさらわれることを極真側が恐れ、参加を拒絶した」との噂が、都市伝説のようにファンの間に広がっていった。

 それでも、まだこの時点での大方の認識は、関西ローカルの空手王者という程度のものであった。しかし、'90年に全日本キックボクシング連盟が日本武道館でビッグマッチを開催し、これに勇躍参戦したことで一気にメジャーな存在となる。
 このとき佐竹は、グローブを使用する試合の経験があるにはあったが(全日本空手道選手権の延長時においてグローブ着用&顔面ありのルールを採用)、正式なキックボクシングルールでの試合は初体験だった。
 相手は、かつて前田日明とも熱闘を繰り広げたドン・中矢・ニールセンで、佐竹戦の直前には、結果は敗れたとはいえ“キック界の帝王”ロブ・カーマンとも拳を交えていた。

 圧倒的に不利な条件の下、それでも大歓声で迎えられた佐竹は、試合開始早々から積極的に前に出る。そうしてクリンチの体勢になると、掟破りの頭突き(バッティング)を連発!
 レフェリーにクレームを入れようとニールセンが動きを止めても、お構いなしにパンチの連打を浴びせ、ブレークのかかった後の一撃でKOしてしまった。
 「無効試合、あるいは佐竹の反則負けとなってもおかしくない試合ではありました。実際、当時の格闘技専門誌では、大々的に批判記事が掲載されたりもしています」(格闘技ライター)

 だが、そんな佐竹の闘いぶりを、多くの格闘ファンはファイティングスピリットの表れとして好意的に捉えていた。
 「この頃の佐竹のベストバウトは、'91年に開催されたUSA大山空手vs正道空手5対5マッチでの、ウィリー・ウィリアムス戦です。序盤、ウィリーの攻めを正面から受け切ると、あとは佐竹の独壇場。体格でひと回り以上も大きいウィリーに対し、上段蹴りや組み付いての飛び膝を狙うなど、積極的に攻め続けました。結果は判定ながら完全勝利といえるでしょう」(同)

 終盤には、佐竹の下段蹴りや正拳突きでウィリーがグラつき、顔を歪ませて悲鳴を上げる場面もしばしば見られた。
 この頃のウィリーは40歳目前と、すでに選手としての峠をすぎ、早々にスタミナを切らしていたようにも見えた。が、それでもかつて極真で旋風を起こした伝説の“熊殺し”を相手に、空手の舞台で完勝したことは、佐竹の名声をさらに高めることになった。

 そんな佐竹が次なる標的として選んだのが、前田日明率いるリングスだった。初のリングスルールでの試合は“喧嘩屋”ジェラルド・ゴルドー戦。
 ただし、これはレフェリーのブレークの際、ゴルドーが背を向けたところへ佐竹が攻撃を仕掛け、それにキレたゴルドーが顔面パンチやサミングの暴走モードに突入。佐竹の反則勝ちという、ファンにとってはやや肩透かしの結果となった。

 それでもリングスでは、以後2度の引き分けを挟んで、5連続のKO勝利を収めている。
 「ひとくちにパンチといっても、グローブ使用時のそれと空手の正拳突き、UWF系による素手での掌打では、技術が異なり、まったくの別物といっても構わない。それらを短期間のうちに使い分け、しかも、順応して勝ち続けてきた佐竹は格闘センスのかたまり。天才でしょう」(同)

 しかし、いよいよ前田との新旧格闘王対決を待望する声が高まってきたところで、佐竹は練習中の胸骨骨折を理由にリングスを離れることになる。
 だが、これを額面通りに受け取る声は少なかった。
 「前田側が対戦を避けた」「さまざまな条件が折り合わなかった」「すでに発足が決まっていたK-1に専念するため」など、その理由はいろいろ語られたが、いずれにしてもこのドリームカードが実現しなかったのは、ファンにとって残念だったに違いない。

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