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【幻の兵器】知られざるソビエトの実験機

 ロシア革命とその後の内戦は航空産業にも深刻な被害を及ぼしたが、革命直後の1918年12月にはニコライ・ジュゥコフスキー教授がモスクワにソビエト航空研究所を開設するなど、困難な状況下においても基礎的な技術情報の収集や蓄積は着実に行われていた。ソビエト航空研究所はまもなく中央空気流体力学研究所(ツアギ)となり、諸外国に先駆けて1924年には直径13メートルに達する巨大風洞を含む空力実験所の建設に着手している。

 また1920年代にはツポレフやポリカルポフ、グリゴーロヴィチ、イリューシン、ヤコヴレフといった錚々たる設計者達が活躍しはじめ、独自設計の国産機が量産されるようになった。そのうえ1930年12月には中央航空エンジン研究所(ツィアム)が設立され、航空用エンジンについてもて先進的な研究に取り組みはじめた。

 そして1930年代にはソ連航空産業の建設が最高潮に達し、外国の援助や輸入機材に頼ること事はほぼ無くなった。先に述べた多くの設計者達の手になる原型機が次々に試験され、その多くは実用に耐える設計として量産された。

 しかし、その影では試験の過程で何らかの不具合が発見され、人知れず消えていった機体も少なくない。またソビエトの特異な政治情況に翻弄され、将来を有望視されながらも中止に至った開発計画があり、反対にほとんど成功する見込みが無いにもかかわらず多くの労力を費やした開発計画もある。

 特に1920〜30年代は航空機設計という概念自体がまだ生まれたばかりで、基礎的な手法や理念も固まりきっていなかった。そのため、商業的有用性や資本の制約がほとんどなかったソビエトにおいて、特に数多くの先進的な(とびきり風変わりな)設計が試されたのである。

 たとえば、ボリス・I・チェイェラノフスキーの設計した一連の無尾翼機もそのひとつで、彼はまっすぐな後縁と湾曲した前縁をもつパラボラ状の翼を考えついた。チェイェラノフスキーは小さなグライダーから始めて1926年には動力飛行にこぎつけ、やがて1938年にはレース用の競争機を制作した。だが1941年にドイツがソ連へ侵攻したため、チェイェラノフスキーの開発計画は中止されてしまった。

 その他、ヴィクトル・N・ベリヤーエフ博士も全翼機の開発に取り組んでおり、長距離爆撃機・飛行翼を意味するDBLKを試作している。ただし、看板に偽りありでDBLKは双胴体形式になっており、全翼機ではなかった。機体は1940年に初飛行し、おおむね良好な結果を収めたとされる。だが翌41年にドイツがソ連に侵攻したため、オーソドックスな設計で生産が容易な爆撃機の生産が優先され、風変わりなDBLKは試作のまま開発中止となった。

 しかし、当時のソビエト航空界はデルタ翼の無尾翼機、あるいは全翼機という構想を熱心に追求しており、チェイェラノフスキーの他にもアレクサンドル・S・モスカリェフは1937年に大きな後退角のついたデルタ翼式原型機を試験している。また、実験的で類例のない飛行機を開発するために設置された特別製造局においても、V・A・チジェフスキーが無尾翼機を設計していた。モスカリェフは高性能無尾翼戦闘機に単脚式着陸装置を付ける実現性を証明するためSAM6という風変わりな外見の実験機を制作したが、肝心の無尾翼戦闘機は検討段階で立ち消えとなってしまった。

 他方、チジェフスキーの方は試作機の制作にこぎつけBOK5として初飛行にも成功したようだ。機体はチェイェラノフスキーの試作機にやや似ていなくもないが、翼平面形は後縁がまっすぐな台形で垂直尾翼や方向舵も一般的な形状をしていた。だが1938年にチジェフスキーならびに関係者の一部はスターリンによる粛清の対象となり、中心人物が逮捕されたために計画も破棄された。

 また、偉大な設計技師として高く評価されていたコンスタンティン・カリーニンも粛清の犠牲となり、全翼爆撃機の開発計画と共に姿を消した。カリーニンは主翼の幅が53mに達するK-7というほぼ全翼の大型機を開発しており、さらにK-12という全翼爆撃機の開発を進めていた。まず、大型のK-7は1933年8月に初飛行したが、試作機が墜落して1935年には開発が中止されている。このK-7は長楕円形の主翼前縁から6基のエンジンと短い胴体が突き出し、後方には細長い胴体に支えられた尾翼が突き出すという、非常に特徴あるスタイルだった。

 また、重量級の機体を支える降着装置も巨大で、特徴的な船型のカバーには銃座まで設けられていた。ただ、分厚い翼から飛び出した尾翼や、下駄を履いたような降着装置は独特の迫力があり、ロシアではかなりの人気がある。インターネットではナチスドイツの円盤機と空中戦を繰り広げる活躍想像図が公開されるなど、ソ連時代の超兵器として格好の素材となっているようだ。

 他方K-12は飛行データを得るために制作した実験機(愛称:炎の鳥)も飛行に成功するなど、開発そのものは比較的順調に推移していた。そのため、粛清がなければ全翼爆撃機が量産されていた可能性は少なくないだろう。

■K-7データ
全幅:53.0m
全長:28.0m
翼面積:454.0平方メートル
離陸重量:38,000kg
エンジン:水冷V型12気筒エンジン M-34f(各離昇出力550KW)7基
最大速度:234km/h
上昇限度:5,500m
武装:20mm機関砲 8門、7.62mm機銃ShKAS 8丁
爆弾搭載量:16,600kg
乗員/乗客:12人(旅客機型は乗客120人)

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