逆に言えば、それだけケタはずれのスケールを持った傑出した政治家だったということになる。改めて振り返ると、その「功罪」は何だったのか。
最大の「功」は、戦後、日本保守政治の主導権を官僚から政治家、あるいは政党に取り戻したことにある。田中以前の自民党は、いずれも官僚出身の岸信介、池田勇人、佐藤栄作を首相とし、政治は官僚主導のもとにあった。「政治は国民の生活のためにある」。そんな気概で自民党に飛び込んだ田中は戦後の荒廃からの脱却のため、国民のために議員立法の成立に情熱を注ぎ込んだものだ。
議員立法は、法律の立案から国会答弁まですべて議員個人がするもので、よほどの能力がなくては法案の成立まで持って行けない。対して、内閣立法があるが、これは政府の指示で官僚が立案する。官僚主導政治のゆえんだ。
田中は「都会と地方の格差をなくす」のスローガンのもと、鉄道、道路、橋、住宅など戦後の社会基盤立て直し整備に、実に33本のこうした議員立法を自ら成立させた。こんな戦後の政治家は田中をおいて一人としていないのである。田中という政治家を得なかったら、わが国の今の発展はどれだけ遅れていたかの思いがあるということでもある。
対して、「罪」すなわち「負」の遺産は、やはりその政治手法にあったと言える。田中は世評の一部にあった単なる金権政治家ではなかったが、自民党を掌握し、キングメーカーであり続けるために「数の力」に頼った。それが、一方で利益誘導型政治につながり、ひいては“集金能力”の増殖に結び付いていた。伴って、公共事業の拡大は財政の逼迫も招いたということだった。
しかし、政治家の実績とは、「功罪」のプラス・マイナスでしか挙げられない。それは読者諸賢の判断であり、なお、田中のマイナス面への指摘は、今の、あるいはこれからの政治家の「他山の石」とすべきであることは言うまでもない。
一方で、今「田中という政治家再び」という待望論もあるようだ。その卓抜な発想と能力への“郷愁”は多としながらも、果たして今の時代に「田中流」が存分に機能したかは疑問が残る。傑出した政治家でも、その時代にピタッとはまるかどうかは分からないのである。古来、歴史上の人物は、常に“時代の要請”の中で生まれている。「地の利」「人の和」に加え、「時を得た」人物だけが、その時々の英雄たることは歴史が証明している。一般社会、また同じ。時を得て初めて「出世」の入り口に立てるということである。
連載終了にあたって、曲折多かった人生を、ただひたすらバク進した田中の遺訓めいた生きる知恵の名言二つを挙げ、田中からの最後の“贈り物”としたい。
諸賢、心しておいて損はないと思われる。
「世の中は嫉妬とソロバン(計算)の渦。そこをどうかき分けられるかどうかだ」
「結局、食って寝て、嫌なことは忘れるのが一番」
〈完〉
次号より筆者による秘録・戦後総理夫人伝『天下の猛妻』の連載が始まります。ご期待ください。第1回は、安倍晋三・昭恵夫人です。
〈参考文献〉
「私の履歴書」(田中角栄・日本経済新聞社)、「私の田中角栄日記」(佐藤昭子・新潮社)、「政治家田中角栄」(早坂茂三、中央公論社)、「早坂茂三の田中角栄回想録」(早坂茂三・小学館)、「角栄のお庭番 朝賀昭」(中澤雄大・講談社)、「角栄と真紀子のヒソヒソ話」(上之郷利昭・潮出版社)、「田中角栄全視点」(自由国民社編集部・自由国民社)、「越山田中角栄」(佐木隆三・朝日新聞社)、「田中角栄は死なず」(蜷川真夫・山手書房)、「ザ・越山会」(新潟日報社・新潟日報事業社)、朝日新聞および新潟日報縮刷版。
尚、本文中の敬称は謝して略させて頂いた。
小林吉弥(こばやしきちや)
早大卒。永田町取材46年余のベテラン政治評論家。24年間に及ぶ田中角栄研究の第一人者。抜群の政局・選挙分析で定評がある。著書、多数。