search
とじる
トップ > スポーツ > 俺達のプロレスTHEレジェンド 第4R “善戦マン”から“日本人最強”へ〈ジャンボ鶴田〉

俺達のプロレスTHEレジェンド 第4R “善戦マン”から“日本人最強”へ〈ジャンボ鶴田〉

 最近では「試合の勝ち負けよりも内容が大事」なんてことを言うプロレスファンも少なくない。しかし、果たして本当にそうなのか。

 星条旗柄〜赤パンツ時代のジャンボ鶴田は、ジャック・ブリスコ、ハーリー・レイス、テリー・ファンク等々、歴代NWA王者と互角の勝負を繰り広げながら、結果勝ち切れなかった。そのためについた呼び名は“善戦マン”。ここに、憧れや尊敬の念は一切感じられなかった…。
 「NWA王者はアメリカプロレス界の最大派閥だった同団体の利益の象徴なのだから、日本人の鶴田が長期王者となることは難しかった」などと、今になって言う向きもあろう。しかし当時のファンの多くが、大事な試合に勝ち切れない鶴田をどこか侮蔑の目で見ていたことに間違いはない。
 コスチュームをストロングスタイルのシンボルとされる黒パンツに変更してからも、しばらくそうした見方は変わらなかった。そもそも、いつから鶴田が黒パンツに替えたかを覚えている人は、どれほどいるだろうか(正解は1982年、リック・フレアーとのNWA戦から)。

 では試合で勝てばいいのかといえば、プロレスはそんなに単純ではない。
 '83年にはブルーザー・ブロディを破り、伝統のインター王座獲得、その翌年には世界三大王座の一つ、AWA王者としてアメリカツアーを行った。
 かのブロディが「鶴田と好勝負するために身体を絞った」というぐらい(渕正信のブログ『酔々ブルース』より)、日本人の中では図抜けた力量を見せてはいた。
 しかし、このとき鶴田にとっての“敵”となったのが、新日本プロレスをめぐるスキャンダル報道である。

 先述ブロディ戦の直前には初代タイガーマスクが突如の引退宣言、猪木の社長解任クーデターなどが重なり、それらに話題を奪われてしまう。また、日本人初のAWA王座戴冠も、長州力の「維新軍旋風」の前にどこか霞んでしまった。
 鶴田へのファンの関心が集まりはじめたのは、その長州との戦いからだった。'85年、60分フルタイムドローとなったシングルマッチでは、長州の身体の小ささやスタミナ不足が際立ち、対する鶴田の怪物性を目立たせるものとなった。
 '80年代後半からの天龍源一郎との抗争もまた、鶴田株の上昇に一役買った。中でも'89年4月、大阪での三冠ヘビー級選手権試合。天龍を急角度パワーボムで完全失神させた試合は今も語り草となっている。
 そうした日本人対決の中で鶴田は、何人かの選手を病院送りにしている。今のファンの基準からすれば「相手を怪我させる=下手クソの三流レスラー」ということにもなろう。だが、これらは鶴田の怪物ぶりを修飾する逸話となり、いつしか入場時にはファンからの「ツ・ル・タ! オー!」コールが巻き起こるまでになっていた。
 こうした鶴田の歴史が証明するのは「やはりプロレスは内容だけではなく、話題性のある試合において勝利することが重要だ」ということではなかったか。

 鶴田の評価がいよいよ“日本最強”レベルにまで上昇したのは、三沢光晴ら超世代軍の壁となってからであった。若手たちがいくらぶつかっていってもビクともしない。ジャンピングニーパット一閃で三沢を吹き飛ばし、川田利明の顔面を踏みつぶし、菊地毅を頭上高くまで持ち上げて雑作なく投げ飛ばす。まさに鬼神のごとき戦いぶりで、見る者全てがその天性の才を感じずにはいられなかった。
 鶴田が対戦希望相手としてアントニオ猪木、前田日明、藤波辰爾、ハルク・ホーガンらの名を挙げても、誰も「ビッグマウス」などと陰口を叩くことはない。むしろファンからは「鶴田に勝てるわけがない。名前を出された相手がかわいそう」と見られるまでになっていった。

 惜しむらくは、最初の三沢とのシングルマッチからわずか2年半ほどにして、病のためセミリタイアとなったことであろう。
 当時鶴田は42歳。師匠の馬場が同年齢のときにはスタン・ハンセンとの抗争を始めたばかりで、それを思えば鶴田もまだまだファンの心に残る名勝負を残せたはずである。

ジャンボ鶴田
 1951年、山梨県出身。'72年、ミュンヘン五輪レスリング100キロ超級代表に。卒業後、全日本プロレスに入団すると、一躍エースにまで上り詰める。2000年、肝移植手術時、出血多量により死去。享年51。

スポーツ→

 

特集

関連ニュース

ピックアップ

新着ニュース→

もっと見る→

スポーツ→

もっと見る→

注目タグ