アレン氏は8年ほど前から独自の調査チームを組織して武蔵の探査を進め、今年3月、無人潜水艇を駆使してフィリピン・シブヤン海の海底に沈む武蔵発見にたどり着いた。艦橋や艦首、「主弁取手」「開」などの文字が刻まれたバルブ、さらには索敵用偵察機を射出するカタパルト、主砲の測距儀などを撮った映像が世界中に公開された。しかもアレン氏は海底から武蔵を引き揚げ、日本政府に引き渡すとも述べている。
沈没後の武蔵の船体を確認した事実はこれまでなかった。そのため水深や沈没地点についてさまざまな説が伝わっていた。
「新聞に載った写真を見てすぐに分かりました。これは間違いなく武蔵の主砲測距儀だってね。私は完成直後から沈没するまでの2年間、武蔵に乗っていたし、副砲の測的班にいたので砲の見分けはつきます」
中根鉄夫元海軍二等兵曹(94)が武蔵発見についてこう述べれば、大場貢元海軍二等工作兵長(90)も感慨深く語る。
「よくぞ見つけてくれたと思う反面、無念さというか、忸怩たるものもある。武蔵には、今もって多くの仲間が船内に閉じ込められたままだからね」
両氏とも、乗組員2399名中1023名が戦死した戦艦武蔵の激戦から九死に一生を得て生還。武蔵の最期を知る生き証人だ。
武蔵は『大和』の二番艦として三菱重工長崎造船所で起工。わが国の造船技術の粋を集めて1942年8月に竣工した。ここで『武蔵』と命名され、連合艦隊司令長官の旗艦となってマストに大将旗が高く掲げられた。全長263メートル、全幅38.9メートル、重量6万5000ドン、46センチ主砲9門、15.5センチ副砲6門。この他、高角砲機銃を搭載する武蔵は世界唯一であり、まさに大日本帝国海軍が誇る超ド級の戦艦であった。
しかし太平洋戦争は艦隊決戦主義から潜水艦や航空機に主役が移り、もはや大艦巨砲時代ではなくなっていた。実際、大和も武蔵も自慢の主砲の威力を十分に発揮しないまま、完成からわずか2年数カ月で沈没に至る。