そんな無聊、閑職にあっても決して時間を無碍に遣り過ごすのではなく、持ち場持ち場で全力を尽くすのが田中の人生の一貫した姿勢、大成する者と凡人の差はこうしたことにある。
さて、そんなさなかの昭和43年7月の参院選は田中に依るこの「都市政策大綱」が選挙の“目玉”ともなり、自民党は前回とほぼ同じ議席を獲得。佐藤栄作首相は目前に迫る自民党総裁選での「3選」を目指した。
しかし、自民党内には異論がくすぶっていた。なぜなら、「沖縄返還」を悲願とする佐藤は前年11月の米・ワシントンでのジョンソン米大統領との首脳会談で、「両3年内にアメリカは沖縄の施政権を日本に返還する」との合意を取り付けてはいたが、返還に際して沖縄の米軍基地内にある核兵器をどうするのかで、野党ともども自民党内に少なからずの議論があったということであった。
佐藤は当初、日本側の要求を“核抜き”とするか“核付き”を容認するかは「白紙」としていたが、やがて「3選」をスムーズに運ぶためもあり、政府見解としてこの国の「非核三原則(核を製造せず、持たず、持ち込まず)」を表明した。しかし、自民党内では三木武夫(後の首相)、前尾繁三郎(後に衆院議長)らの大物がさらに詰め寄り、返還後の沖縄について「核抜きの上、米軍が基地を使う形は本土並みのそれとする」ことを強く主張、結局、この三木、前尾が一歩も譲らずで、11月27日、佐藤を加えたこの3者で総裁選を争うことになったのだった。
結果は、佐藤派の“台所”を一身で背負い、すでに自民党内に自らのシンパを多く抱えていた田中の陣頭指揮の多数派工作が功を奏した形で佐藤が第1回投票で過半数を獲得、「3選」を手にすることになった。小派閥を率いる「バルカン政治家」としてシタタカさで定評のあった三木が2位、旧池田(勇人)派という大派閥を率いながらの前尾は持ち前の“戦争ベタ”が祟った形で3位に甘んじたのであった。「3選」を果たした佐藤は12月1日に改造人事を断行、政権基盤の再構築に乗り出したのである。
改造人事で最も注目されたのは、幹事長に誰が座るかであった。結果、折から泥沼状態の大学紛争の解決など多難な国会運営を任せられる辣腕、総裁「3選」多数派工作の論功行賞の意味合いから田中を三たびの幹事長に起用したということであった。
一方で、「沖縄返還」実現への道筋をさらに確実にするため、自民党内の異論を封じ込めるために田中の“腕力”に期待したということでもあった。田中もまた、ここで一時、官房長官就任説が流れたが、「そんなもんには絶対にならんッ」と、一蹴したという経緯もあったのだった。その裏には、オレ以外にこの難局を乗り切れる幹事長を務まるヤツがいるかの、強烈な自負がうかがえた。
また、この改造人事で目立ったのは佐藤の「人事の佐藤」といわれた人事名人ぶりであった。一般社会でも、トップの地位が維持できるか否かの大きなポイントが、人事にあることは言うまでもない。人事の成否は、トップに人を見る目があるかの一点にかかる。冷静、沈着で鳴る佐藤はこの目に優れ、人事の基本ともいわれる「チェック・アンド・バランス」を常に怠らず、その手法を駆使してみせたということだった。
当時の佐藤を支えた体制は、「閥務に優れ政策にも明るいリアリスト」の田中角栄、「経済」の福田赳夫(後の首相)、「寝技師で調整能力に秀でる」保利茂、「政策マン」として聞こえた愛知揆一、そして「忠臣」の橋本登美三郎という“5本柱”であった。佐藤は、中でも田中、福田、保利のポスト“3本柱”を重視し、これを「チェック・アンド・バランス」、すなわち常に競争・牽制・均衡の中に置く手法を用いたのである。3人の誰の突出も許さず、田中が幹事長として力を付け自分をおびやかしそうになるとこの田中を閑職に追いやり、今度は冷や飯で腐っていた福田を引き上げるといった具合である。また、田中、福田をともに引き上げ、互いに牽制させることによって力の削減を狙った。あるいは、この両者をともに退けて保利を幹事長に持ってくるなど、縦横に駆使したということである。佐藤の戦後首相最長在任期間7年8カ月は、こうして維持されたということでもあった。
一方、3期目の幹事長としての田中は“ヤリ手”ぶりを存分に発揮、「この幹事長から首相の座に就くまでの約4年間が、田中さんの政治生活で最も輝き、充実していた時期」(旧田中派・小渕恵三元首相)がスタートを切ることになるのである。
(以下、次号)
小林吉弥(こばやしきちや)
早大卒。永田町取材46年余のベテラン政治評論家。24年間に及ぶ田中角栄研究の第一人者。抜群の政局・選挙分析で定評がある。著書、多数