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俺達のプロレスTHEレジェンド 第45R プロレス界のキング・オブ・キングス〈ハーリー・レイス〉

 昭和のプロレスファンが“世界チャンピオン”としてまず思い浮かべるのは、ジャイアント馬場でもアントニオ猪木でもなく、ハーリー・レイスではなかろうか。カーリーヘアにもみあげをたくわえた厳つい顔で、それとは対照的な明るい印象のショートガウンをまとったそのいでたちには、バックル部分がやや小ぶりで角張った“レイスモデル”とも称されるベルトがよく似合う。

 1973年にドリー・ファンクJr.から王座を奪ってから、'84年、リック・フレアーに敗れるまで足掛け12年。レイスの足跡は、すなわち世界最高峰のプロレス団体NWAの歴史そのものであった。
 戴冠回数は8回を数える。つまりはそれだけ王座陥落と奪還を繰り返していたわけだが、だからといって、その王者としての価値が下がることは決してなかった。 

 絶対的な強さで勝利を続けたルー・テーズや、華麗なレスリングで魅了したドリーとも違う。元祖ダーティーチャンプのバディ・ロジャースともまた違う。
 「日本で行われた多くのタイトル戦でもそうでしたが、挑戦者の攻めを受けながらも決定的な場面ではうまく受け流し、間隙を突いて勝利する。あるいはのらりくらりとかわし続ける。そんなレイス独特のスタイルは日本のファンからすれば実に憎たらしく映ったものですが、それでいてレイスを認めるところもあった。どこか身体の奥底からにじみ出るような強さを感じさせるレスラーでした」(プロレスライター)

 ディック・マードックは「レイスと喧嘩するようなバカはいない」と語った。リング外でもマイペースを貫いたアンドレ・ザ・ジャイアントが、レイスと席を同じくしたときだけはおとなしくしていたとも伝えられる。
 これらがレイスの力量を恐れてのものなのか、あるいは王者に対する敬意なのかは、両者ともに鬼籍に入った今となっては判然としないが、ともかく周囲からも一目置かれていたことは確かであろう。
 「NWA王者になる前のレイスは典型的なブルファイターで、激しい攻めを売りにしてアメリカ各地のローカル王座を総ナメにしていました。それが王者になってからは連日の防衛戦をこなすために、いわば省エネファイトをしていたわけです。それでいて手抜きと思わせないのが、レイスの職人芸だったのでしょう」(同・ライター)

 短期間の特別参戦で、馬場と3回、鶴田、ブッチャーと各1回の計5回もタイトル戦をこなす強行スケジュールが組まれた際にも、一つひとつの試合のクオリティーは決して落とさない。これが当時のNWA王者の責務であり、それをやりこなすことができたからこそ王座に君臨し続けることができた。
 晩年、WWE参戦の際には“キング”ハーリー・レイスを名乗ったが、まさに“王”の名にふさわしく、またそう呼ばれることが似合うレスラーはレイスをおいて他にいない。'95年に交通事故の影響で身体を壊して正式引退を発表した後も、その佇まいには王者の威厳が漂い続けている。

 さて、日本での名勝負といえばマードックらとの外国人同士のハードな闘いも捨て難いが、やはり印象深いのは馬場とのタイトル戦、中でも'80年に佐賀と大津で行われた連戦が挙げられよう。今年1月の来日時、ラジオ番組に出演したレイスはその1戦目を振り返って「馬場は日本のナンバーワンレスラーで、グッドフレンドだからタイトルをプレゼントしたんだ」と語っている。
 この言葉をそのまま受け取れば、当時のレイスはタイトルの移動を自らの意思で決定するだけの権限を持っていたということになる。
 逆に言えば、それだけNWAからの信頼を得ていたからこそ、長年王座を任されたということでもあろう。
 だが、そうした一方で「敵対団体のリングに火を放った」「飲食店で拳銃をぶっ放した」(ダイナマイト・キッド談。レイス本人は否定)というような、デンジャラスな逸話も残っている。

 とてもヤンチャでは済まされない暴力性を内に抱えつつ、王者としては紳士に振る舞う。そんな両面性こそが、レイスの魅力の源泉だったといえるのかもしれない。

〈ハーリー・レイス〉
 1943年、アメリカ出身。初来日は'68年、日本プロレス。'73年にNWA王座に就くと、全日で馬場をはじめ多くの選手とタイトル戦を行った。'86年、WWF(現WWE)に移籍し、'95年に正式引退。現在は『WLW』を主催し、後進育成に努めている。
鶴田vsレイス(1977年 世田谷区体育館)

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