レフェリーを務めるタイガー服部のマイクに、6万2000人の観客がどよめいた。
1994年1月4日、新日本プロレス東京ドーム大会『'94バトルフィールドin闘強導夢』のメーンイベントとして行われたアントニオ猪木と天龍源一郎のシングルマッチ。リング上には猪木の“魔性のスリーパー”を食らった天龍が、ノビたままで1分、2分と時間ばかりが過ぎていった。
この試合の直前に、猪木は格闘技ルールにこだわって「怖い試合をやる」と宣言していた。'89年の参議院選挙で当選した後、プロレスよりも議員としての活動に軸足を置いていた猪木は、この頃すでに年数回の特別な試合にのみ参戦する半引退状態だった。
一方の天龍は'92年に旗揚げした団体・WARのトップとして、新日と抗争を展開中。これまでに橋本真也、蝶野正洋、長州力、藤波辰爾をいずれもシングル戦で下していた。
猪木が格闘技を強調したのは、いわゆる“よい試合”を見せるための耐久力や忍耐力では、もはや天龍に劣ると自覚したからだろう。ならば、普通のプロレスの試合ではなく、一撃で勝ち負けの決まるルールでやろうという意図だった。
協議の末に通常のプロレスルールが適用されることになったものの、猪木はゴングと同時にナックルパートを天龍の顔面に連打すると、そこからチョークスリーパー。天龍がロープに手を伸ばすのもお構いなしに、鬼の形相で締め上げた。
冒頭の服部レフェリーの言葉は“天龍がノビたのは反則攻撃によるもので、猪木の勝ちではない”ことを観衆に向かって説明したものだった。
この試合の数カ月前、新日の幹部会議で次の東京ドームで猪木vs天龍をメーンとすることが決定された。議員生活との兼ね合いでスケジュールやコンディションの調整が困難なことから、数をこなせなくなった貴重な猪木の試合。初顔合わせとなるビッグネームとのシングル戦ならば、猪木ファンも納得で集客効果は抜群に違いない。
だが、1年を占うビッグマッチのメーンイベントで、中途半端な相手というわけにもいかない。前出の幹部会議では、次のようなやり取りがあったという。
「で、どうするの?」
「そりゃあ、源ちゃんしかいないだろう」
マッチメーカーA氏の発言に、幹部たちは一斉にざわめいた。
「誰が会長(猪木)を説得するんだ」
その数日後、会議での決定を伝えるためにAが会長室を訪れた。
「あぁ? 天龍?」
全日本プロレス=ジャイアント馬場のニオイの残る天龍の名に、猪木は不愉快さを隠そうともしなかったが、Aは“天龍率いるWAR軍との抗争が、いかに新日の利益になるか”を言葉を尽くして説明した。
「で、どうするんだよ」
「絶対、会長に恥をかかせるようなことはしませんから、ここはコチラに任せてもらえませんか」
猪木を押しのけるようにしてリングに駆け上がった長州力のビンタを受け、わずかに生気を取り戻した天龍は、場外へ体を運ばれ、WAR若手の介抱を受けて復活した。
試合再開と同時に、相撲仕込みの突っ張りチョップで猪木を対角コーナーポストまでぶっ飛ばし、反撃の卍固めも力任せに振り払う。
猪木も腕ひしぎ十字固め(やはりロープに逃れても離さず)やアームブリーカーで抵抗を見せるが、攻撃は単発。逆水平チョップでペースを握った天龍が、必殺のパワーボムを繰り出した。
きれいに投げられることをよしとせず、抵抗したことで後頭部からマットに打ちつけられた猪木に、カウントが数えられる。
レフェリーの手が3度目にマットを叩くと同時に、起き上がって天龍に殴り掛かっていったのは、猪木最後の意地だったのか。