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ケイリン徒然草 高原永伍を尊敬してやまなかった松本勝明

 松本勝明(京都)は凄い人だ。競輪が始まった昭和23年11月から半年でプロ入り。毎日、同じ時間にトレーニングに出かけ、当時たくさんいた踏切番が自分の時計を合わせたというエピソードはあまりにも有名だ。
 昭和40年12月23日の後楽園準決。特選で千勝が果たせなかった松本はマークの長谷川昇(栃木)を抑えて1着。千勝の表彰式を日本一の競輪場で、しかもメッカともいわれた後楽園で受けた。
 「2回乗りもあったんだから千勝は当然だよ」という陰口はあったが、生涯成績はなんと1341勝。これはいまだに破られていないし、破る選手も出ないだろう。
 高原永伍(神奈川)とは仲が良かった。

 「永ちゃんは立派だ。いつも先行して勝つし、そのための努力を怠っていない。戦後っ子とは思えない気力の持ち主だよ」
 昭和45年の一宮日本選手権。優参した松本はトップを引いて高原の優勝を望んでいた。だが、勝負の世界は厳しい。先行した高原はマークの工藤元司郎(東京)に追い込まれて2着。高原は遂に日本選手権はとれなかった。
 松本が凄いのは37歳で千勝してから引退するまでに341勝をあげたことだろう。40歳になってもまくり脚は衰えず一宮で高原の応援団だった昭和45年は42歳だった。
 松本と中井光雄の練習ぶりは昔の選手の間では語り草になっている。京都の長岡京市から比叡山の山登りに来る松本と、びわこ湖畔の大津から比叡に上がっていく中井は時間を合わせたように山頂で顔を合わせたという。松本のホームバンクの京都向日町と中井の大津びわこでは選手が合流して練習をした。
 平成6年、競輪選手の名輪会が結成され競輪学校の名誉教官だった松本を会長に高原が幹事長になって特別競輪等で名輪会のサイン会も行われた。
 競輪界はプロ野球の名球会のように、OBがそれ相応の扱いを受けていなかったが、このときに初めて偉大なる競輪選手のOBが表舞台に出て来たのだ。
 毎年、京都向日町では松本勝明賞が行われ今年2月は地元の稲垣裕之が逃げ切って優勝、花を添えている。80歳になった松本だが、脚は弱くなったものの元気に暮らしているという。競輪創成期の大スターはオールドファンの記憶に今も残っている。

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