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俺達のプロレスTHEレジェンド 第12R 生涯歩み続けたヒール道〈上田馬之助〉

 今、あらためて上田馬之助の映像や写真を見たとき、「思っていたよりもデカい」と感じる人は多いのではないか。
 上田のプロフィール上の身長は190センチで、これはタイガー・ジェット・シンと全く同じ数字なのだが、そのマストイメージはあくまでも「シンの脇を固める小悪党」。そのことが記憶の中の“上田像”を実寸よりも小さなものにしてしまっているところはあるだろう。
 そしてこのことは、プロのヒールを貫いた上田自身の望むところでもあった。

 とにかく観客に嫌われ、憎まれ役であり続ける。そのためにはリング上では技らしい技も使わない。凶器攻撃や場外乱闘、頚動脈へのクローなど、相手を攻めるというよりも、むしろ観客のイラ立ちを募らせるための攻撃を繰り返した。
 「日本プロレスへ入団したばかりの若手のころ、上田はダブルリストロックを得意としていて、練習時の若手同士の極めっこでは敵無しだったと聞きます」(プロレス誌記者)

 だが、そんな技巧派ぶりを、フリーランスとなってからの上田は一切見せなかった。悪役に正統派の技など必要ないからだ。
 ヒールに与えられた役目は、自分の技で客を感心させることではない。ベビーフェースに嫌らしい攻撃を仕掛け、観客をヒートアップさせた上で、見事打ち倒されることがその仕事である。

 上田の名勝負ということで振り返ってみても、思い出されるのは、悪事と自身のやられっぷりばかりだ。
 猪木との五寸釘デスマッチでのTKO負け(1978年、日本武道館)や、馬場にジャンピング腕折りで脱臼させられた制裁マッチ('83年、後楽園ホール)などなど…。
 「シンとの仲間割れというアングルで実現したヒール同士の一騎打ちにしても、上田は見事なほどに技らしい技は出さなかった。この前、久しぶりにアンドレ・ザ・ジャイアント戦の映像を見たのですが、そこでも上田は一切攻撃することなくやられっぱなしでした。それでいて試合としては成立していて、それなりに興味深く見ることができるのですから、やはり上田のヒールとしての存在感は大したものです」(同・記者)

 そんな上田が唯一、善玉としてスポットライトを当てられたのは、UWF軍との5対5イリミネーションマッチ('86年、東京体育館)。当時、日の出の勢いだった前田日明を道連れにして、両者場外リングアウトに持ち込んだ場面だろう。
 だが、このときにしても上田は前田の蹴りを受けるだけ受け、その脚をつかんで場外に落ちたというだけ。そのタフネスぶりを賞賛する声こそあったが、上田から前田を攻め込むような場面はついぞ見られなかった。

 こうした上田のプロフェッショナルぶりと比べたとき、今はヒールらしいヒールがメジャー団体のリングで見られなくなったとつくづく思う。レスラーとして脚光を浴びたいという我欲なのか、はたまた団体側の“平等主義”の表れなのか、時に華麗な大技で主役を食ったりもする“悪役風”の選手ばかりだ。
 「ネットなど情報が発達したのも、ヒールにとってはやりづらいところでしょう。“リングを降りれば実は良い人だ”なんて話がすぐに出回るから、いくら悪に徹したところで観客は昔ほど本気で憎んでくれないんですね」(同)。

 上田にしても'96年、インディ団体IWAジャパンでの巡業中に自動車事故に遭い、頚椎損傷で首から下が動かなくなってからは、美談が伝えられるようになってきた。
 「本当にマジメな性格の人だ」とか、「昔から孤児や障害児童の施設を慰問していた」とか…。

 車椅子生活を余儀なくされた上田が、同様の症状に苦しむ人たちに向けて講演したときのこと。聴講客の1人が野次を飛ばした。
 「昔から悪いことばっかりしてたから、そんな目に遭うんだ!」
 心ない言葉だとその客を責めることなかれ。
 車椅子姿になってもなお、憎まれ続けることは上田にとって本望であり、きっと悪役レスラーとしての勲章のように感じられたに違いないのだから。

〈上田馬之助〉
(うえだうまのすけ)1940年、愛知県出身。大相撲力士を経て'60年、日本プロレス入門。崩壊後は全日からフリーへ。国際、新日、全日で悪役人気を博す。巡業中の自動車事故で胸下不随となり、2011年、誤嚥による窒息で死去。享年71。

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