生粋の「お嬢さま」で幼稚園から聖心女子学園に通い、スキー、テニス、ゴルフのスポーツを謳歌する一方で、早や10代にして夜遊び大好き、ブランド物のバッグにボディコン姿で六本木の「ジュリアナ東京」などに通い、有名ミュージシャンに熱を上げるなど奔放そのもの。就職した「電通」では酒が好きだったことで、“宴会部長”に任じられていた。勉強は好きではなかったため、本来ならエスカレーターで上がれる聖心女子大に入れず、やむなく聖心女子専門学校に入ったのだった。
酒については酒豪の域で、総理夫人となってからも深酒はやるし、しばしば泥酔もで、安倍晋三首相が第1次政権を降りたあとには東京・神田に居酒屋まで経営、自ら店に顔を出し“一杯”やることもある。
そうした中で、市民運動家やら種々雑多な“知り合い”もでき、「反原発」「TPP(環太平洋経済連携協定)反対」といった、夫とは違った見解の会合にも出席、それを支持する講演もやるといった具合だ。「夫の足を引っ張るようなことは控えるべき」との周囲の声には耳を傾けず、堂々の「家庭内野党」を貫き、「三尺下がって夫の影を踏まず」の永田町の諌言など、“どこ吹く風”の昭恵氏なのだ。
わが国の戦後総理は、わずか2日だけの「終戦内閣」鈴木貫太郎首相を除けば、現在の安倍氏で33人を数える。その夫人には多少“変り種”はいたものの、大方は首相を陰で支える立場に徹していた。
その中にあって、いまの昭恵氏は学校法人・森友学園への“激安”国有地売却疑惑問題で“主役”にクローズアップされている。この疑惑問題、昭和50年代初めに発覚、「総理大臣の犯罪」として日本中を震撼させたロッキード事件をもじって「アッキード事件」とも言われている。「アッキード」とは、昭恵氏の愛称「アッキー」から来ている。
しかし、昭恵氏、“主役”となっても悪びれるところはまったくなく、問題化したあともしょげている風は見当たらずで、スキー旅行、講演、ブログでは「注目されて戸惑い」「お騒がせしていますが、世界平和のため、この国のため、社会のため、頑張っています」などと発言、なんとも前向きで天真ランマン、自由闊達そのものといった具合だ。
政治部記者は、次のように言った。
「昭恵氏は物事を深く考えず直感で行動するタイプ。そのうえで、今回の森友学園側との接触は総理夫人としてはいかにも軽率だった。政府はそうした昭恵夫人を『私人』としているが、総理夫人の言動は社会的影響が大きい。言うなら、常に『準公人』の立場にあると言っていい。その肩書を利用しようとする人物は、ウヨウヨいる。総理夫人としては、やはり脇が甘かったと言われても仕方がない」
昭恵氏は、「森永製菓」創業以来の大番頭で、社長も務めた松崎昭雄氏を父に、やはり三代目社長を務めた森永太平氏の次女を母に生まれた「セレブ」である。その親戚筋には安西浩・元東京ガス会長、西村正雄・元日本興業銀行頭取ら財界の錚々たる面々がおり、かつて“永遠の二枚目俳優”として一世を風靡した池部良もこれらに連なっている。
晋三・昭恵夫婦は、昭恵氏の「電通」時代に“見合い”、約3年間の交際を経て、晋三氏がそれまでの神戸製鋼のサラリーマンをやめて父親の安倍晋太郎外務大臣の秘書官になっていた昭和62年6月、当時の盛田昭夫・ソニー会長を媒酌人として結婚した。晋三氏32歳、昭恵氏24歳だった。交際期間中を、昭恵氏はこう振り返っている。
「(晋三氏は)顔はまあまあハンサムだったが、マジメでカタイ雰囲気があった。(デートは)2週間に一度くらいのペースでしたが、食事のときアルコールに強くない主人は軽いものを飲み、私は水割りを飲んでいたり。政治家の妻には不安がいっぱいだったので『私で大丈夫かしら』と聞くと、主人は『全然、大丈夫。大変なことなんか全然ない』って」(「文藝春秋」平成18年1月号)
その結婚から30年、「私で大丈夫かしら」の昭恵氏の不安は、奇しくも「アッキード事件」で“的中”することになる。
古代中国の漢書に、「傾城(けいせい)」という言葉がある。地位にある女性の失態が城や国を傾け、滅ぼすことを指す。森友問題の今後が“安倍城”傾きに直結するのかどうか。安倍氏は国会答弁で、「私や妻は(国有地売却問題に)一切関わっていない。もし関わっていたら、間違いなく首相も国会議員も辞任することをハッキリ申し上げる」とタンカを切っているのである。
じつは、時に物議をかもす一連の昭恵夫人の振る舞い、発言は、第1次安倍政権を退陣、第2次政権への「再登板」以降の間で、明らかに変わっている。この間、何があったのか。
〈この項つづく〉
小林吉弥(こばやしきちや)
早大卒。永田町取材48年余のベテラン政治評論家。抜群の政局・選挙分析で定評がある。著書に『決定版 田中角栄名語録』(セブン&アイ出版)、『21世紀リーダー候補の真贋』(読売新聞社)など多数。