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俺達のプロレスTHEレジェンド 第2R 秘めたるエンタメ魂〈ラッシャー木村〉

 「UWFはもともと、ラッシャー木村がエースになる予定の団体だった」というと、眉にツバするプロレスファンも多いだろう。
 しかし、これは事実だ。
 「当初UWFは、アントニオ猪木が新日本プロレスを離れ、フジテレビかTBSを中継スポンサーにして新団体を立ち上げようという計画から始まったものでした。そうして新日を中継するテレビ朝日とダブルで放映権料を得ようという皮算用だったのです。ところがいろんなシガラミから猪木は新日=テレ朝を離れられないということになり、そこで新団体のエースとして白羽の矢が立ったのがラッシャーでした」(当時を知る新日関係者)

 後にUWFの絶対エースとなる前田日明もこの当時は一介の若手にすぎず、テレビ局からカネを引っ張るためには、元・国際プロレスのエースで猪木との抗争で名前を売ってきたラッシャーの看板が必要だったというわけだ。
 しかし結局テレビ局との交渉は不調に終わり、UWFは将来を前倒しする形で、前田をエースとして旗揚げすることになる…。
 そのUWFからラッシャーが早々に離脱したことについて「格闘色の強いファイトスタイルについていけなかったから」と見る向きもあるようだが、それは明らかな誤りである。もともとラッシャーの所属した国際は、社長の吉原功が早大レスリング部出身ということから、毎日レスリングの練習を欠かさなかった。よって格闘技の下地としては全日、新日の所属選手たちよりも、しっかりとしたものを持っていたのだ。

 さらにラッシャーは、ビクトル古賀からサンボを、ビル・ロビンソンからキャッチ・レスリングを学んでいた。そうして見れば、むしろ格闘技的な試合においては当時国内トップクラスだったものと思われる。
 かの鉄人ルー・テーズも猪木、馬場との比較で「相撲とレスリングをマスターしているラッシャーが一番強い」と評している。
 国際の招きで来日していたときのコメントだけに多少の割引は必要だろうが、ルー・テーズともあろう者が、まるっきりのデタラメを言うとも思えない。少なくとも、第一次UWFの当時はプロレス流の練習しかしていなかった前田に比べて、ラッシャーが技術面で遅れをとることはなかっただろう。

 では、なぜラッシャーはUWFにおいて、そうした能力を発揮しようとしなかったのか。
 国際時代は「地方プロモーターのウケがいいから」との理由から、エースとして日本各地で金網デスマッチを繰り広げた。
 新日では国際時代のエースから一転してヒールに徹し、猪木と国際軍団による1対3の屈辱の試合にも臨んだ。
 全日では、衰えを隠せなくなった馬場にお共して『義兄弟コンビ』『ファミリー軍団』としてマイクパフォーマンスを売りにした。
 いずれもクライアントや雇い主の意に従った振る舞いであり、ならばUWFにも継続参戦してよさそうなものなのだが、なぜそれをしなかったのか。

 実はそこに、プロレスラー・ラッシャー木村の真の姿がうかがえる。
 ラッシャーは、プロレス入りする以前の力士時代、十両目前まで昇進しながら「プロレスラーになりたいから」と周囲の反対を押し切って廃業している。つまり、それほどまでのプロレス愛を持っていたということである(ちなみに力士時代の所属は、当代きっての大横綱・白鵬と同じ宮城野部屋。つまり白鵬の兄弟子ということになる)。
 力士廃業後、国際で本格デビューする前にはアメリカ遠征しており、そこで時にはマスクマンにもなるなど、エンターテインメントとしてのプロレスを身に付けてきた。
 つまり、朴訥な外見からは想像し難いが、ラッシャーの本質は、実は筋金入りの“アメリカン・エンターテインメントプロレス”なのである。
 だからこそ、金網からヒール役、お笑いまでこなすことができた。そして、そんなラッシャーのプロレス哲学、レスラーとしてのプライドからすると、UWFの格闘風プロレスは興味の対象外だったというわけである。

ラッシャー木村
 1941年、北海道出身。大相撲から日本プロレス入りした後、東京プロレスを経て国際プロレス入り。国際崩壊後は新日、全日、ノアに参戦した。2010年、誤嚥性肺炎のため死去。享年68。

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