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奥の細道で有名な俳諧師・松尾芭蕉は忍者だった!?(後編)

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 江戸時代の俳諧師で「奥の細道」の著者でもある松尾芭蕉には、正体は忍者だったという話がある。この仮説は昭和のころからテレビ番組や書籍で取り上げられており、近年は都市伝説として流布されている。

 その詳細については「前編」に譲るとして、このようなスパイ、調査員を大名や幕府が派遣した事例はほかにもある。有名な例は水戸光圀の「大日本史」編纂事業に関わるものである。当時漫遊していたと言われる光圀は実際にはほとんど漫遊せず、調査員を各地に派遣し歴史や地理を調べ上げている。当時の感覚として藩が違えば完全に「外国」。その外国の調査をするために偽装したスパイを送り込むことは一般的な感覚であった。

 このようなスパイは、俳諧師以外でも旅の僧侶である雲水、虚無僧、山伏、薬売りや芸人など、巡回する商売人などがいる。武田信玄が歩き、巫女を各地に派遣し、諜報部隊として活用したことは広く知られている。

 芭蕉忍者説の証拠として芭蕉の死後、江戸幕府は芭蕉の弟子であった曽良に第四回諸国巡見の随員として検分依頼を出しているのだ。曽良は旅の途中に死去してしまうが、芭蕉一門が幕府側のスパイであった証拠とは言えないだろうか。

 なお余談だが、某タレントが松尾芭蕉の正体が「家康から自由にしてもらった服部半蔵ではなかったのか」とか、また「半蔵という名前は半蔵門という地名から取った」とか、奇妙な仮説を展開している。

 だがこの仮説に対して筆者は異論を持っている。松尾芭蕉と家康が使った服部半蔵とでは時代が100年ばかり違う。子孫である四代目服部半蔵ならば芭蕉と時代が合うが、四代目の半蔵は忍びではなく事務官になってしまっていた。また、半蔵門という地名から服部半蔵の名前がついたのではなく、服部半蔵の名前から半蔵門という地名が生まれたのだ。

 都市伝説の仮説と言えども、最低限の歴史的常識はカバーしていただきたいものである。

(山口敏太郎)

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