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俺達のプロレスTHEレジェンド 第18R 日本育ちのアメリカンヒーロー〈ハルク・ホーガン〉

 “ハルク・ホーガンは日本のプロレス界が育てた”というのは、とりわけ新日本プロレスファンにとっての誇りであった。

 初来日時、既にWWF(現WWE)では王者ボブ・バックランドに何度も挑戦し、またアンドレ・ザ・ジャイアントとの対戦ではボディスラムで投げ飛ばすなどトップクラスの実績を残していた。そんな“インクレディブル(信じられない)”ハルク・ホーガンは、新日でも当初からMSGシリーズの特別参戦と、トップ級の扱いではあった。
 だが、そのリング上での動きはというと、はっきり言って怪力頼りのデクの坊。初見で「日本では通用しない」タイプの選手と感じたファンも多かった。
 それがいつしかグラウンドの攻防もこなすなど徐々に技術の向上を見せ始めると、試合でも猪木とのコンビでMSGタッグリーグ優勝、さらにはIWGP優勝と順調にポジションアップを果たしていった。
 今で言うなら、昨年末の紅白に松田聖子とデュエットで出場した歌手のクリス・ハートのようなもので、デビュー前にはやはり日本人であるヒロ・マツダに師事し、テクニックもパフォーマンスも日本で学んだ“親日外国人”というのがファンたちの認識であった。

 そんなホーガンが「イチバ〜ン!」と叫べば大歓声で応え、映画『ロッキー3』に出演すれば、まるで日本のプロレスが世界に認められたかのようにうれしく思ったりもした。
 だが、1983年、WWFの全米侵攻の際にトップとして迎え入れられたホーガンは、そのうちに日本のリングと疎遠になる。
 単にスケジュールの都合から来日できなくなったというだけでなく、映像で見掛けるアメリカでの戦いぶりも、日本でのそれとは全く異なる大味なものへと変容していった。

 日本において決め技とされたアックスボンバーは、ただのつなぎ技とされ、フィニッシュは“ハルクアップ”からのレッグドロップ。勝利後のマッスル・パフォーマンスが、当時ホーガンの最大の見せ場であった。
 完璧なスーパースターを演じ切るその姿は、日本のファンもアメリカと同様に、笑顔で歓声を送りたくなる魅力にあふれてはいた…。しかし、そこにいるのは日本で育ったはずの“超人”でも“現代に蘇ったネプチューン”(by古舘伊知郎)でもない、華美な衣装を身にまとうアメリカンヒーローの“アイコン”であった。
 '87年の『レッスルマニア3』で主役を担ったホーガンが、アンドレとのメーンイベントで史上最多9万人以上の大観衆を集めたと聞いても、それは「日本に関係ない他の国の出来事」でしかなかったのだ。

 そんなアメリカマット界の頂点に立ったホーガンが、'90年4月13日、久々に日本のリングに登場することになる。
 東京ドームで行われたWWF、全日、新日合同興行『日米レスリングサミット』のメーンイベント。対戦相手は新日時代からの盟友であり、長きにわたって日本のトップに立ち続けたスタン・ハンセン。
 当初はテリー・ゴディが予定されながら、前売り券が伸びなかったため急遽ハンセンに変更したともいわれるが、これはファンにとって願ってもないことで、当日は5万人を超える大観衆が押し寄せた。
 いよいよメーン。会場には『サンライズ』に続いて『リアル・アメリカン』が流れる。花道のホーガンはアメリカでおなじみのサングラスとバンダナではなく、タンクトップにハチマキというシンプルなコスチューム姿であった。
 ゴングが鳴ると同時に、ホーガンはロックアップから身体を回転させての腕絡みを披露すると、続いてカニバサミでハンセンの足を取って倒し、バックに回って攻め立てる。さらにコブラツイストでハンセンを締め上げ、場外戦へなだれ込むと、互いに額から大流血。グラウンドでの攻防に流血のラフファイト、いずれもアメリカではめったに見せない姿である。
 フィニッシュもレッグドロップではなく、アックスボンバーを豪快にたたき込んでから見事にフォールしてみせた。
 この日のホーガンはアメリカンヒーローではない、紛れもなく日本で育った「イチバ〜ン!」のハルク・ホーガンであった。

〈ハルク・ホーガン〉
 1953年アメリカ出身。'77年、覆面レスラーのスーパー・デストロイヤーとしてデビュー。ハルクをニックネームとして'79年、WWF参戦。初来日は'80年の新日本プロレス。以後、米国で転戦し、トップスターとして活躍した。

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