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俺達のプロレスTHEレジェンド 第17R まさにレジェンドの中のレジェンド!〈ルー・テーズ〉

 プロレスの起源としては19世紀の初頭、イギリスのキャッチ・アズ・キャッチ・キャンや、アメリカでのアマレス賞金マッチなどがいわれるが、現在につながる形を作ったのは紛れもなく“鉄人”ルー・テーズである。テーズの登場以前、すでに「ベビー・フェース対ヒール」「屋内ホール興行」などの様式は出来上がっていたが、1948年にNWAが立ち上げられ、そこでテーズが王者に君臨したからこそ、プロレスは世界的な人気を獲得するに至ったのだ。
 NWA立ち上げの前後には、これによる興行独占状態を快く思わない小プロモーションも多く、その中には「実力行使でテーズをつぶして覇権を握ろう」とした輩も少なからず存在したという。しかし、テーズはそうした相手をシュートで次々と下していった。つまりテーズがその実力でもって、NWAという一大ネットワークを築き上げたのである。

 そんなテーズの伝説の一つに「引き分けを挟んで936連勝」という記録がある。これは結果が残っている試合だけの数字で、「ローカルでの試合を含めれば2000連勝はしている」との説もある。
 「テーズ本人によれば、一番自信を持っていた技は、代名詞ともいえるバックドロップではなく、ダブルリストロック。この技で各地の猛者を倒してきたという自負があってのことでしょう」(プロレス評論家)

 単にシュートが強かったというだけではない。
 「勝つためというだけならば必要のないドロップキックやフライング・ボディシザース・ドロップも見栄え重視で取り入れて、しかも“名手”と呼ばれるほどの使い手となった。これはつまり強さだけでなく、ショーとしてのプロレスも重視していた証拠です」(同)

 そんなテーズの初来日は1957年。NWA王座を巡る力道山との名勝負に始まって、1990年、蝶野正洋との師弟対決まで(このときの年齢は何と74歳!)都合30年以上にわたり日本のプロレスファンの前で試合を披露し続けてきた。
 初来日時、すでに41歳。以後は下り坂に差し掛かったこともあり、むしろ試合よりも“特別レフェリー”や“立会人”としての印象の方が強いという人も多いだろう。

 そうした中でもいまだに伝説として語り継がれるのが、1967年、国際プロレスにおけるグレート草津戦だ。
 このときまでにテーズは、力道山だけでなくジャイアント馬場にも星を譲っており、それに続いて3匹目のドジョウを狙ったのが、この年から『TBSプロレス』の番組名で国際のテレビ中継を開始したTBSだった。わざわざこの旗揚げに合わせて、アメリカでグレート東郷をブッカーとして『TWWA王座』なるものを立ち上げ、その初代王者にテーズを据えた。そうして「レジェンド・レスラーのテーズを国際の若きエース候補、グレート草津が破って王座戴冠」というのが、TBSのもくろみだったが、これが最後の最後で裏切られる。
 「TBSは放送開始当初から“新時代のスターを分単位で誕生させる”などと言って、草津に勝たせるつもりでいました。しかし、肝心の現場では“まだデビューから2年ほどの草津がテーズに勝つなどトンデもない”という意見が支配的だったのです。それでも国際側は“せめて引き分けなど好勝負をさせて今後に期待をつなげたい”という考えでいたのですが、テーズと東郷がそれを許さなかった」(当時を知る関係者)

 結果は3本勝負の1本目、バックドロップによる草津の失神KO負け。
 当の草津は後に「東郷に寝ているようにいわれた」と述懐している。つまりこれは“東郷によって仕組まれた結果”だったというわけだ。
 「テーズの実力、実績、プライドを鑑みれば、グリーンボーイの草津が相手ならばその結果が相応だったということ。当時の国際は完全にTBSの支配下にありましたが、そんな金主であるTBSであっても現場には口を挟ませない。そんな気概が当時のレスラーたちにはあったのです」(同)

 まさに“プロレスとは底が丸見えの底なし沼”(by井上義啓=元週刊ファイト編集長)なのである。

〈ルー・テーズ〉
 1916年アメリカ出身。16歳でデビュー、初来日は'57年、日本プロレス。以後、国際プロ、新日プロに参戦。特別レフェリーなどで他団体にも関わる。74歳で引退。2002年、心臓疾患から肺炎を併発して死去。享年86。

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