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【記憶に残るプロ野球選手】第5回・スターにはなれなかったがインパクト抜群の男・元木大介

 若い世代の人にとって、元木大介(元巨人)はいったいどんなイメージだろうか? やはり、時折、バラエティ番組に出てくる大して売れないタレントといった印象か? 元木はれっきとした元プロ野球選手で巨人OB。現在は大手芸能事務所ケイダッシュ・グループのアワーソングス・クリエイティブに所属。芸能活動の他、巨人ブランドを生かして、しばしば、TBSラジオの「エキサイトベースボール」、日本テレビ系のCS放送ジータスの「週刊ジャイアンツ」に解説者として登場している。

 元木といえば、ダイエー(現ソフトバンク)への入団を拒否した事件は避けて通れない。大阪・上宮高校時代、3度甲子園に出場。高校通算24本塁打、甲子園通算6本塁打を放つなど、超高校級スラッガーとして鳴らしただけに、“清原二世”をほうふつとさせたものだ。マスクもなかなかのものであったため、多くの女性ファンのハートをつかんでいた。

 熱狂的な巨人ファンだった元木は巨人入りを熱望し、巨人も指名を約束していたが、困ったことに巨人が上位指名を予定していた慶應大の大森剛内野手が「高校生より下の指名なら行かない」と発言。やむなく、巨人は大森を1位指名し、野茂英雄を抽選で外したダイエーが外れ1位で元木を指名してしまったのだ。

 巨人入りの夢を断ち切れなかった元木は、ダイエーの指名を拒否。それが原因で、かつての江川卓よろしく、マスコミや野球ファンのバッシングを受けるハメになってしまった。大学や社会人に進んでしまうと、プロ入りが遅れてしまうため、元木は浪人を選択。マスコミに追われるのを避けるため、海外に渡り、ハワイで野球留学をする。しかし、留学とは名ばかりで、練習環境は最悪だった。

 1年後、1990年のドラフト会議で巨人から念願の1位指名を受け、入団。しかし、ブランクが響き、1年目は2軍暮らしが続いた。2年目の92年に1軍初出場。内野ならどこでも守れるユーティリティープレーヤーとして活躍。8年目(98年)にようやくレギュラーの座を奪い、114試合に出場し、打率.297、9本塁打、55打点のキャリアハイの成績を収める。以降、2002年まで巨人の主力選手として活躍するが、故障もあって、03年から出場機会が激減。05年後半には、堀内恒夫監督(当時)の構想から外れ、2軍降格。同年9月には戦力外通告を受けた。他球団からトレードの打診もあったものの、「巨人が好きで、1年間待ってまでユニフォームを着たこともあり、入団した時からユニフォームが着られなくなったら引退すると決めていた」として、33歳の若さで引退を決断した。

 初志貫徹ではないが、獲得を希望する球団がありながら、巨人でのプレーにこだわってユニフォームを脱いだ元木。他球団に移籍していれば、また違った野球人生があっただろうが、今も野球関係の仕事ができているのは、生涯巨人をまっとうした“巨人ブランド”があったからこそか…。野球センスの良さは群を抜き、守備も決して、悪くはなかったが、シーズンを通してレギュラーとしてフル出場した年はなく、それが響いてか、スター選手になれそうでなれなかった。

 高校時代はスラッガーだったが、プロ入り後は1度も打率3割(規定打席到達で)、2ケタ本塁打もなかった。通算安打891本、通算本塁打66本と平凡な成績。高校の同級生であり同じ内野手で、中日に6位指名されてプロ入りした種田仁(中日→横浜→西武)の方が、プロでは成績を残したのはなんとも皮肉か…。

 プロ15年間で積み重ねた成績は、それほどたいしたものではなく、スター選手にはなれなかった元木だが、ことチャンスでの勝負強さは抜群。98年には得点圏打率1位となるなど、試合を決める一打を放つ機会が多く、ヒーローインタビューに呼ばれるケースも多々あった。そのため、記録よりファンの記憶に残る選手だった。

 高校時代の元木を知っている者からしたら、プロ入り後の姿はなんとももどかしく映った。くしくも、元木の巨人入りを遠回りさせた大森はプロでは大成しなかった。あの時、巨人が大森ではなく、元木を1位指名していれば、元木の野球人生も変わったものになっていたかもしれない。

(ミカエル・コバタ=毎週火曜日に掲載)

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