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俺達のプロレスTHEレジェンド 第43R 才気あふれる元祖ペイントレスラー〈ザ・グレート・カブキ〉

 元祖ペイントレスラーのザ・グレート・カブキ。地味でオーソドックスなタイプの高千穂明久が劇的な変身を遂げたのは、アメリカ遠征時のマネジャー、ゲーリー・ハートの思い付きから。雑誌に日本の歌舞伎が取り上げられているのを見て、高千穂に「こういうスタイルはできないか」と持ち掛けたのが、そのきっかけだった。
 当初ゲーリーは“歌舞伎風マスクマン”を想定していたが、「どうせなら」と高千穂自ら隈取の化粧を施した。それまでも顔面ペイントの選手はいたようだが、一つのスタイルとして確立させたとなると、やはりカブキが最初である。

 このとき、単に見掛けをマネしただけにとどまらなかったことが、カブキの人気を決定的なものにした。
 当初、隈取メークと歌舞伎風の華美なコスチュームで入場したものの、そもそも元ネタの歌舞伎自体を知らないアメリカの観客からの反応はいまひとつだったという。そのため「何かパフォーマンスを取り入れよう」というときに思い付いたのが『毒霧』だった。
 カブキ当人の語るところによれば「シャワールームで口に含んだ水を吹き上げたとき、そこに虹が架かったのを見て思い付いた」のだという。何か出来過ぎの話にも聞こえるが、ともかく霧吹きパフォーマンスは子どもたちを中心に大人気となる。

 これについてもカブキは、ただ「液体を吹き上げる」というだけでは満足しなかった。試合後の会場で「何色の液体が照明に映えるか」と実験を繰り返し「赤と緑の見栄えがいい」と、今も引き継がれる毒霧の基本スタイルを作り上げた。
 「実は発想の豊かさでは業界トップクラスなのでは? リング外でも、後楽園ホール近くでプロレスファンの客を見込んだ居酒屋を開いたのはカブキが最初でしょう」(プロレスライター)

 さらにカブキのオリジナルといえば、今では誰もが使うようになったトラース・キックもそうだ。試合中、ロープに振った相手の突進を止めるためにたまたま足を出したのが最初だそうだが、それをフィニッシュホールドにまで磨き上げたのだった。
 こうして見ると、カブキのアメリカでの成功は「珍しいギミックがウケた」というだけではなく、当人の優れたプロレス感覚によって練り上げられた結果であったことがわかろう。

 期間限定のギミックとして始めたはずのカブキの人気は日毎に増し、ついにはアメリカ各団体でメーンを張るまでになっていった。
 それでもカブキは人気にもおごることなく、ヌンチャクパフォーマンスや日本刀での殺陣、連獅子のカツラに能面での入場など、日々新たな趣向を増やしていった。

 だがそのため、所属する全日本プロレスからの帰国命令があったときには、いくらかの躊躇もあったという。
 「アメリカの観客の好みに合わせてハデにしていった結果、本筋の歌舞伎とは似ても似つかないものになり、それを日本で披露しても受け入れられないのではないかという気持ちがあったようです」(スポーツ紙記者)

 しかし、そんな心配もどこ吹く風。1983年のカブキ凱旋帰国シリーズは、御大ジャイアント馬場が欠場していたにもかかわらず連日の超満員。日本のファンからも喝采を浴びることになる。
 「カブキのパフォーマンス見たさというのも当然ありましたが、それと同時に“アメリカで成功した日本人スターを祝福しよう”という空気も強かった」(同)

 ハデな外見だけでなく、試合巧者ぶりでも目を引いた。アッパーカットやクローなどのシンプルな技で試合を組み立て、スタン・ハンセンなど大型外国人とも正面から渡り合ってみせた。
 「ただ、いくらカブキが良い試合を見せていても、全日においては“馬場と鶴田の次”という厳然たる格付けがあった。全日創設メンバーではなく、日本プロレスからの途中加入だったことで、待遇の差もあったようです」(同)

 そうしたことへの不満もあって、カブキはSWSへ移籍。以後、その人気は尻すぼみとなってしまった。
 もし、カブキが全日の主流として残り、そのオリジナリティー溢れる才覚を団体運営に生かしていたならば、その後の日本のプロレス界はもっと違ったものとなっていたかもしれない。

〈ザ・グレート・カブキ〉
 1948年、宮崎県出身。高千穂明久もリングネームで、本名は米良明久。'64年、日本プロレスに入団しデビュー。日プロ崩壊後は全日所属に。'81年、アメリカ遠征時にザ・グレート・カブキとなり、人気を博す。現在は傍らで居酒屋店主などセミリタイア状態。

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