時に、沖縄に関しては、この1カ月前に訪米の佐藤栄作首相がニクソン大統領との間で「1972年(昭和47年)、沖縄の核抜き本土並み返還」の日米共同声明を発表。さらには自民党が日米安保条約の自動継続を決めたことが大きく、他には大学運営法などの自民党の強行採決連発を国民がどう捉えるかも“第3の争点”となった。
一方で「選挙がメシより好き」な田中は、エラく張り切っていた。ドタバタと候補者の公認調整を片付けるや、公示前日には早くも投票日開票前用の「かく戦えり」のビデオ撮りも済ませてしまうなど、ヤルことは早かった。その上で、公示直前には記者団にこうブチ上げたのだった。
「まぁ、解散時の(自民党の)272を割るなんてことは絶対にあるもんかッ。大体だ、(沖縄返還についての)日米共同声明の解決の仕方が悪いとか不安だとか言うのは、ごく一部の被害妄想的思考にすぎん。キミたちね、自己資本だけで経営している会社は堅いように見えても、こぢんまりしていて発展性がないんだよ。大会社は銀行から借り入れて、ドンドン発展している。ボクは当分、党本部で選挙形勢をにらんで采配を振るうが、最終段階では出撃しますッ」
選挙中盤戦以後のその“出撃”ぶりは、何とも“田中らしさ”を見せつけた。公認調整を一手に握るという“幹事長特権”をフルに活かし、来たるべき自らの天下取りの手勢を増やすため、目を付けた候補へ豊富な選挙資金をブチ込み、そうした候補の選挙区に足を運んでは応援に全力投球した。時に、自民党公認の新人候補は47人。うち“田中系”は14人もいたのだった。
その応援ぶりも他の実力者のもっともらしい演説などとはヒト味もフタ味も違い、例えば、後に外務大臣をやることにもなる木村俊夫の選挙区〈三重1区〉(注・当時の中選挙区制下)へ乗り込んだときには、こんなエピソードも残している。
折から、木村が選挙区回りで後援会集会を不在にしたとき、木村の秘書がその非を詫びると「かまわんッ」の一言で集会の壇上に立ち、こんな“芸”を披露してみせた。「今晩は木村先生の代わりにこの田中がお相手するッ」。ハナシは適当に切り上げ、得意のナニワ節『杉野兵曹長の妻』ならびに『天保水滸伝』2席のサワリをウナり、歓声、どよめき去らぬ中でカッコよく退席するといった具合だった。こうした一種の「稚気」は男の武器、この“型破り幹事長”はどこへ行っても人気は上々で、もとより木村も見事に当選を果たしたのであった。
12月27日の投開票。田中が戦前に口にした絶対の自信通り、自民党は無所属当選者の追加公認を加えて実に300議席の大台に乗せた。
このときの選挙の初当選者は「花の44年組」と言われ、その後、第一線で活躍した者が多く、“田中系”には後に首相の座にも就いた羽田孜、小沢一郎(現・自由党代表)、梶山静六(元・官房長官)、渡部恒三(元・衆院副議長)等々。“田中系”以外では福田赳夫(元・首相)に近いやはり後に首相となる森喜朗(現・東京五輪組織委員長)などもいた。
中でも選挙区事情から公認漏れとなり、〈福島2区〉から無所属で当選を飾った“会津訛り”で知られた渡部恒三は、こんな思い出を筆者に語ったことがある。
「当選直後の上京で、列車で上野駅に着いた。そうしたらホームにまだ陣笠だった竹下登、金丸信のお2人が待っていて、こう言うんだ。『これから田中幹事長のところに行こう。田中さんが拉致してでも連れて来いと言うんだ』と。党本部の幹事長室へ行くと、田中さん、破顔一笑、言うんだ。『当選、おめでとう。公認できなかったことは許してくれ。今、キミを自民党公認とした。コレを取っておけ。役に立たないモノではない。頑張ってくれッ』と、公認料の300万円の札束を無理にオレの背広の内ポケットにネジ込むんだ。オレも公認を外されて面白くなかったが、結局、議員として、以後、一貫してオヤジ(田中のこと)の後をついていくことになった。人間味、政治的能力、この人を超える人は、ついぞいなかったからだった」
この総選挙での大勝は、「ポスト佐藤」へ向けて田中が最有力候補の1人であることを、改めて自民党内外に印象付ける形となった。
年が明けた昭和45年2月、ホテル・ニューオータニで行われた自民党と財界人との新春懇談会の席上、田中は壇上からこう言って神妙に頭を下げた。
「わが党が300議席を取れたのは、皆さんの物心両面からの援助のおかげでありますッ。お礼の会をやっても足りないくらいであります」
会場を出て記者団に取り囲まれると、しかし、ヌケヌケとこう言ったのだった。「オレだって、時には頭を下げるさ」
田中の天下取りへの自信は、いよいよ深まっていくのである。(以下、次号)
小林吉弥(こばやしきちや)
早大卒。永田町取材46年余のベテラン政治評論家。24年間に及ぶ田中角栄研究の第一人者。抜群の政局・選挙分析で定評がある。著書、多数。