search
とじる
トップ > その他 > 【不朽の名作】エンタメ要素これでもかと詰め込んだ「二代目はクリスチャン」

【不朽の名作】エンタメ要素これでもかと詰め込んだ「二代目はクリスチャン」

pic pic

パッケージ画像です。

 映画のエンタメ的な要素をこれでもかと詰め込んだ「二代目はクリスチャン」

 1985年公開の『二代目はクリスチャン』といえば、当時はつかこうへい原作・脚本で大きな注目を集めた。そして現在では、映画『パッチギ!』などで知られる井筒和幸監督作品としても有名だ。同作を含め、この時代の角川映画は、もはや語りつくされている感があるが、今だからこそあえて扱いたい。なぜなら、エンタメとしての映画の楽しさを、これでもかと教えてくれる作品だからだ。

 そもそも、この作品、ヤクザを題材とした映画なのに、主役が至って普通の教会のシスターが、やがてヤクザの2代目を襲名するというかなり突飛な設定なのだ。いちいち設定に説明をつけようとすれば、無駄な話の多い、とても退屈な作品となってしまう確率が高い。そこでこの作品では、最低限必要な説明だけを、シーンの中に盛り込み、見る側が映像に集中できるような、娯楽作品として演出が光っている。

 まず、この作品は1本の映画ではあるが、実は2部構成であることに注意して欲しい。前半は志穂美悦子演じる美人シスター・今日子、そして警察官で実家が仏教寺の神代と、ヤクザの天竜晴彦の三角関係をめぐるラブコメディーとなっている。しかし後半では打って変わり血で血を洗う完全なるヤクザ映画の展開が待っている。たとえばこの作品を連続ドラマでやったとしたら、前半5話くらいはコメディ展開、後半5話が主要キャラに死人続出の、鬱々とした暴力展開の連続となってしまう。たぶん、最初のコメディ展開を好きで見ていた人には「どうしてこうなった?」という疑問しか残らないと思う。しかし、この作品は、限られた時間で物語を伝えることが必要な映画であることを活かし、とにかく見る側が疑問を挟む余地のないほどの、すさまじい勢いでストーリーを展開させる。

 前半は、晴彦と子分が今日子の気を引くために、必死にキリスト教を学ぶ姿や、そのことを他のヤクザや、警官の神代にバカにされるシーンなどのコメディ要素が、さりげない背後関係の説明と共にドタバタと展開される。そして視聴者は、前半のコメディノリに笑っている勢いのままに、気がつくと、今日子が結婚式で凶刃に倒れた夫の晴彦のかわりに、天竜組の2代目襲名をするシーンを見ることとなる。ここからヤクザ映画のノリが強くなるのだが、既に他の組との因縁の説明などは、コメディシーン中に済ませてあるため、大きな疑問もなく視聴者は次の展開に引き込まれる。むしろこの2代目襲名のシーンで、今日子の死んだ父親が、神戸の街を救った伝説の侠客だったことが他の組の親分衆から明かされ、その後のヤクザ映画展開がどうなるのかワクワクするほどに。

 しかし、後半開始時のここで、この映画唯一とも言っていいタメが入る。今日子がシスターという聖職者であるため、始めは夫を殺した愛人や、その背後にある黒岩会を許そうとするのだ。子分たちもその教えを守り、「右の頬殴られたら左の頬を差し出せ」という聖書の教えそのままに、黒岩会の嫌がらせに耐えるが、黒岩会の行動がエスカレートし、子分たちが次々と凶弾に倒れ、命を散らしていく展開に。最終的に教会にもロケット砲が撃ち込まれ、めちゃくちゃになるが、キリスト像の後ろから父親が残した日本刀を発見し、さあ、復讐だと流れになる。

 このタメのおかげで、我慢に我慢を重ねてブチギレた今日子に感情移入ができる。この後のカチコミでは、悲しみと共に、爽快感を覚えることだろう。カチコミ時の今日子を演じる志穂美の、「てめーら! 悔い改めてぇやつは十字を切りやがれ!」のセリフはかなり印象に残るはず。

 あとこの作品、出演する役者たちの演技が素晴らしい。突飛な設定と強引な展開の数々に、普通なら胸焼けを起こしそうだが、それもアリな気にさせてくれるほど、キャラが立っているのだ。のんきなボンボンだが、締めるとこは締める、天竜晴彦を演じる岩城滉一。常に軽いノリでズルいが、情には脆い警官の神代を演じる柄本明。敬虔な修道女かと思いきや「私なんて抱かれた男、5人じゃ足りないわ」など、下世話な話を展開する、月丘夢路演じる、今日子の育て親であるマザー・ゴルガンなど、とにかく皆キャラが立っており。飽きさせない展開を提供してくれる。

 そんなキャラのなかでも特に印象に残るのが、蟹江敬三演じる天竜組のまとめ役の磯村と、博徒の英二を演じる北大路欣也だ。蟹江の演技は前半のコメディでも光るが、それ以上に後半が凄い。今日子らをかばって倒れるまで、全て見せ場のシーンを、主役を喰う勢いで持って行ってしまう。北大路は、最初から終盤まで、この作品がヤクザ映画であることを確信させるかのように、極道の要素をセリフや動きの端々にこれでもかと見せつける。散り際は特に見どころだ。

 個人的な意見だが、この映画には、映画の娯楽としての良さが集約されていると思う。人を楽しますには、まずノリが大事だと教えてくれる。どんな強引な設定だろうが、とりあえず深く考える暇を与えないほどの勢いがあり、役者の技量が高ければかなり面白くなるのだ。そう考えると、最近説明セリフを喋りすぎで、変な風に小難しくなっている邦画が多くなっていないだろうか?

(斎藤雅道=毎週金曜日に掲載)

関連記事


その他→

 

特集

関連ニュース

ピックアップ

新着ニュース→

もっと見る→

その他→

もっと見る→

注目タグ