「キッドとの派手な攻防も面白かったけど、B・タイガーの反則を交えたイヤらしい攻めとそれに対抗するタイガーという闘いの方が、ベビーフェース対ヒールという色分けが明確で個人的には好きでしたね」(プロレスライター)
顔面や胸板に細かくフロントキックを見舞いつつ、グラウンドではヨーロッパ伝統のサブミッション。相手の腕をロープに絡めて動けなくしておいてからの串刺しドロップキック。そして、バックを取られたときには脚を後ろに振り上げて股間蹴り…。
その一つひとつが地味ながらも実に効果的で、さらにこれが無尽蔵のスタミナによって際限なく続くのがB・タイガーの持ち味だ。
タイガー自身も後にB・タイガーとの闘いを振り返り「しつこい相手だった」と語っているように、戦績自体はタイガーが圧倒していたが、それでいて常に苦戦していたイメージも強い。
「タイガーがラウンディング・ボディープレスを初披露したのもB・タイガー戦でした(1982年、大阪府立体育館)。それだけB・タイガーとの闘いを重要視していた証拠でしょう」(同・ライター)
タイガー負傷欠場のため空位になったWWFジュニアヘビー級王座の決定戦において、B・タイガーはグラン浜田を下して戴冠。タイガーにとってはその奪還戦ということで試合自体の重要性もあったと同時に、新技を繰り出すのにふさわしい相手だと意識していたのだろう。
初代B・タイガーの正体は、当時欧州の中量級で最強ともいわれ、悪役として鳴らした“ローラーボール”マーク・ロコ。タイガーが英国修行時代、サミー・リーを名乗っていたころはともに素顔で、ベビーとヒールのトップとして幾度も対戦している。またマーク・ロコとしては、やはり欧州マットにおいて、ダイナマイト・キッドとも抗争を繰り広げている。
ただしこの両者の闘いは主に'77年ごろのことであり、'82年のB・タイガー初登場時の実況中、古舘伊知郎が「B・タイガーは来日直前のイギリスで、キッドを秒殺の失神KОに下している」との旨のコメントをしたことについては、真偽不明ながらもかなり脚色されたものである可能性が高い(ちなみに日本でのB・タイガーとキッドのシングル戦は、キッドの1勝0敗)。
なお“ローラーボール”の異名は「回転する球のように速く動き回る」との意味からのもので、日本でのB・タイガーの重厚な試合ぶりからはやや外れた印象もある。
そんなB・タイガーだが、'83年にタイガーが新日を離脱した後も、そのまま参戦を続けた。
「次のライバルとされたのが、ザ・コブラ(ジョージ高野)でした。ところが体格的にB・タイガーをかなり上回っていたので、その持ち味であったイヤらしさやシブとさが“小兵が粘っている”ようにしか見えなかったのは残念でしたね」(スポーツ紙記者)
そのため判官贔屓なのか、それともタイガーとの名勝負を思い出してのことなのか、両者の対戦時にはヒールのB・タイガーへ声援が飛ぶことも多かった。
以後は一度、素顔のマーク・ロコとして参戦し、獣神サンダー・ライガーとなる前の、こちらも素顔だった山田恵一と対戦している('87年、福岡国際センター)。
「この山田戦は、海外武者修行帰りの期待の若手対ベテラン悪役という色分けが明確だったこともあり、かなりの好勝負となりました。結果はシューティングスタープレスで山田が勝利しましたが、ロコも随所で持ち味を発揮していました」(前出・ライター)
その後は再びB・タイガーとしてライガーらと闘うが、'91年、負傷を理由に引退。関係者の話によると、マットを離れてからは実業家として成功し、今はカナリヤ諸島で悠々自適の生活を送っているという。
なおB・タイガーのギミックは2代目となる故エディ・ゲレロに引き継がれ、初代とは違う華やかなファイトスタイルで人気を博した。B・タイガーの名はもはや日本マット界の伝統となり、今現在7代目までが登場している。
〈初代ブラック・タイガー/マーク・ロコ〉
1951年、英国マンチェスター出身。'69年デビュー。初来日は'79年、国際プロレスに素顔で参戦。'82年、覆面レスラーのブラック・タイガーとして新日プロのマットに上がり、以後'91年の引退まで日・英で活躍を続けた。