「まだアメリカで地域ごとのプロモーターが力を持っていた時代、テリトリー内を転戦する際に、各地の有力者とトラブルを起こすような人間ではチャンピオンは務まらなかったわけです」(プロレスライター)
AWAの帝王バーン・ガニアの後継と目されていたビル・ロビンソンが、ついに同タイトル獲得とならなかったのは、そのためだ。
「実力では文句なしだったロビンソンですが、とにかくプライドが高く、どこかアメリカンプロレスを見下しているようなところもありました。レスラー仲間や関係者との間ではトラブルが絶えず、そのため実力ではロビンソンに一歩譲るものの、人格者だったニック・ボックウィンクルが長期王者になったんです」(同・ライター)
国際プロレスに外国人エース格で参戦していた当時も、巡業先でピーター・メイビアとストリートファイトを繰り広げたとの逸話を残している。またカール・ゴッチとの試合が引き分けに終わった後には「あんたの脚を折らなかったのは“武士の情け”だ」と語り、ゴッチをして「プロレスは殺し合いじゃない」と呆れさせたとも巷間伝えられる。
わずかな日本滞在の間だけでもそうなのだから、本拠とするアメリカとなれば推して知るべしだろう。プロレスファンの間では“華麗なテクニシャン”として語られることの多いロビンソンだが、決してそれだけのレスラーではなかったのである。
全日本プロレスではキラー・トーア・カマタやアブドーラ・ザ・ブッチャーとのラフファイトも互角以上にこなしてみせた。また「手首をキメるだけでも100種類以上の技がある」と語る本格派のシューターでもあった。
ベースにあったのはイギリスの『ランカシャー・スタイルレスリング=キャッチ・アズ・キャッチ・キャン(CACC)』。これは簡単に言えば“関節技ありのレスリング”で、ロビンソンが基礎を学んだビリー・ライレージムは、ねちっこく相手に絡みつくそのレスリングスタイルが蛇のようだとして『スネーク・ピット(蛇の穴)』とも称された。
そこでロビンソンは「勝った方が賞金を得る」賞金マッチだった時代の欧州プロレスを勝ち抜くための、あらゆる術を体得した。
「彼は19歳と若くしてプロデビューした分、一世代前のレスラーたちとも多く対戦しています。プロレスがショーとガチンコの間だった時代を戦ってきた、その経験が高いプライドの源泉になっていたのでしょう」(同)
ロビンソンの全盛時−−速く鋭いタックルから流れるようにキメていく関節技などは、現代の総合格闘技においても通用するのではないかと思わせるだけのものがある。
「ダブルアーム・スープレックスを日本初披露したことから“人間風車”の呼び名が付けられましたが、それによって逆にロビンソンのイメージが限定されてしまったところはあります」(同)
名勝負との誉れ高きアントニオ猪木とのシングルマッチが行われたのは、1975年12月11日、新日本プロレス蔵前国技館大会。この日、同じ東京の日本武道館では、全日主催の『力道山十三回忌追善特別大会』が、日米豪華メンバーにより開催されていた。
「全日による新日つぶし」とも言われたが、それでも猪木vsロビンソンの“一枚看板”は、満員の観客を集めてみせた。当時のファンはロビンソンのことを「モハメド・アリとの格闘技世界一決定戦を間近に控えた最高潮の猪木が、雌雄を決するにふさわしい相手」と認めていたし、実際「カーニバル色の濃い大会より“本物の勝負”が見たいから蔵前に行った」という全日ファンも多くいた。
ロビンソンはその後、全日へ移籍。対日本人としては初の敗戦をジャイアント馬場に喫するなど「既に全盛期は過ぎていた」と自ら語った。それでもジャンボ鶴田を連戦による“実践教育”でエースに育て上げるなど、日本マット界に多大な影響を残したのだった。
〈ビル・ロビンソン〉
1938年、イギリス・マンチェスター出身。'68年、国際プロレスに初来日。'75年、猪木と伝説の60分フルタイムドローの試合を経て、以後は全日本プロレスに参戦。'85年に引退後は日本でトレーナーなどを務める。