高校卒業後、一時は国鉄(当時)に転職。そのかたわらボディービルに打ち込み、コンテストに参加した会場で国際プロレス社長の吉原功氏にスカウトされた。1966年12月に旗揚げしたばかりの国際プロレスに入門、覆面太郎のリングネームでデビューした。
日本でデビューした覆面レスラー第1号。小林さんが素顔になったのが68年1月で、海外修業を重ねてパリでIWA世界タッグ王座を獲得するなど活躍。一躍名をあげたのはIWA世界ヘビー級王座を奪ってからで、同王座を73年から25回防衛する日本記録(後に馬場の38回に破られる)を持っていた。文字通り国プロのエースに君臨した。
しかし、74年2月に猪木に挑戦を表明して国プロを離れたこと(別掲)から人生が変わった。猪木戦は74年3月に行われ、いまだに日本人同士の名勝負とうたわれている。結果は猪木の原爆固めに敗れたものの、S・小林の名前は一般的にも知られるようになった。
小林さんはWWWF(現WWE)遠征後、75年に新日プロに正式入団したが、あまり脚光を浴びないまま一線を退き、81年から俳優・タレントへの道を選んだ。持ち前の風ぼうを生かして映画『伊賀忍法帖』に出演。当時の役名「金剛坊」からとり「ストロング金剛」に改名した。愛嬌(あいきょう)のあるキャラクターから子供にも親しまれた。
しかし、ビートたけしのテレビ番組に出た時、再び腰を痛め、ついにリタイアするに至った。小林さんは現在、講演などもこなしながら「まあノンビリとやってますよ。昔の思い出は大切にしまってありますよ」と“ごっつい顔”でニコッと笑う。杖をついても車イスでも、あの怪力男・小林さんは昔のままだ。
◎新日プロVS全日プロ 引き抜き合戦の発端
74年、小林さんが国際プロを離脱して猪木に挑戦した時に事件は起こった。小林さんは国プロがエースに押したG・草津らとの対決から国プロを離脱し、新日プロに参戦。国プロは小林さんに対し移籍金の支払いを要求した。
このトラブルは猪木戦を直前に控えた時で、結局、興行を後押していた東京スポーツ新聞社が中に入り一件落着したが、小林さんは一時「東スポ所属レスラー」となった。
小林さんの離脱で国プロは迷走を始め、果ては倒産してしまった。その猪木VS小林戦は史上初の日本人トップレスラー同士の対戦で大注目を集め、それまで主流だった日本人VS外国人の戦いから日本人同士の戦いにシフトするきっかけにもなった。
小林さんが原因で起きた『離脱→移籍騒動』はその後、新日プロと全日プロの引き抜き合戦となってプロレス界を騒がせた。現在の業界では考えられない大ギャンブルでもあった。