「他のレスラーに比べてプライドが高過ぎる」などと言う関係者もいるが、しかしそれは当然のこと。人気も実力も歴代トップクラスなのだから、プライドを持つなという方が難しい。人気については、あらためて言うまでもない。
デビュー間もなく戦場をアメリカに移すと、以後トップに立ち続け、「マスクマンは素顔で戦わなければならない」というマディソン・スクエア・ガーデンの伝統を打ち破り、覆面のままリングに上がったりもした。
「NWAなどの主要タイトルには就いていませんが、そのころまでの歴代王者はほぼ全員が白人で、有色人種はジャイアント馬場やWWFのアイアン・シークぐらい。馬場は日本限定のレンタル王座ですから、やはり白人がメーンでないとアメリカでの興行は成り立たなかったのでしょう。またマスクマンということでもミスターM(ビル・ミラー)やドクターX(ザ・デストロイヤー)が短期間AWA王座に就いただけです」(プロレスライター)
'70〜'80年代のアメリカは今よりも人種差別的空気が強く、またマスクマン自体が色物視されていた。そんなところに、いくら人気があるとはいえメキシコ出身のマスクマンを王者とするのは、冒険が過ぎるという興行側の判断があったのかもしれない。
またマスカラス側の都合としても、世界各地から高額オファーが届く中で、王者として一つのテリトリーに定着することが難しかったというのもあるだろう。
ではマスカラスの実力はいかほどかというと、これもレスリングで東京五輪メキシコ代表候補になるなど、しっかりとしたベースがあった。
「マスカラスほどの選手となると、その人気をやっかんでリング上でシュートを仕掛ける選手もいたでしょう。それを退ける力量があったからこそ、長年トップを張ることができたのです」(同・ライター)
派手な空中技ばかりが取り沙汰されがちだが、実際の試合を映像で見ると、大半がグラウンドでの展開やストレッチ技に費やされていることがわかる。しかもその動きは流麗かつ多彩だ。
「マスカラスは相手の技を受けない」という他のレスラーの証言もあるが、これも実態は、グラウンドになればすぐにバックを奪って、流れるように技を繰り出すマスカラスのテクニシャンぶりに、相手がついていけなかっただけなのかもしれない。
さらには、ボディービルでメキシコ・ナンバー1ともなった隆々たる筋肉から生み出されるパワーも相当なもので、ブッチャーなどの巨漢レスラーを相手に正面から組んでも、決して引けを取ることはなかった。
「印象的なのは1983年の世界最強タッグ決定リーグ戦、弟のドス・カラスと組んでブルーザー・ブロディ、スタン・ハンセン組と戦った試合です。このときブロディがマスカラス組の技を受けずに険悪な空気が流れたのですが、マスカラスはブロディの身勝手な攻撃を許さないどころか、反対にその腕をカンヌキに極めてしまいました」(プロレス誌記者)
また、1977年、プロレス大賞の年間最高試合賞を獲得したジャンボ鶴田とのUN選手権では、自身よりも一回り以上大きい鶴田の身体をリバース・ロメロスペシャルに捕えて揺さぶる場面が見られた。100キロ以上の相手を完全に浮遊させた状態で軽々と操るなどは、相当の筋力がなければできることではない。
それだけの腕力があればパワーファイターとしての活躍も可能だったろうが、それでもメキシコ伝統のエストレージャ(ルチャの英雄)としてのファイトスタイルを崩すことはなかった。
ちなみに、ルチャリブレの伝統的な試合形式は本来、巻き投げや各種ストレッチ技を駆使するものであり、空中戦はその主役ではなかった。そのため、実はマスカラスも母国やアメリカでは、あまり飛び技を使っていない。
中でも場外へのフライング・ボディー・アタック(プランチャ・スイシーダ)は日本限定の技で、先述の鶴田戦や、ハリー・レイスとのNWA王座戦などの計4度披露しただけである。
日本だけでそうした技を披露したマスカラスは、実はプライドの塊などではなく、むしろサービス精神に富んだレスラーだったと言えよう。
〈ミル・マスカラス〉
1942年、メキシコ出身。初来日は'71年、日本プロレス。アントニオ猪木とシングルマッチも戦った。'73年からは全日プロに参戦し、ジャンボ鶴田やザ・ファンクスらと好勝負を展開。2012年、WWE殿堂入り。