たかじんさんが生前、「偲ぶ会をやるなら、じめじめせず楽しく派手にやってほしい」という言葉のように、賑やかに派手なお別れ会だった。会場では、昨年10月にハワイのコンドミニアムでたかじんさんが自身の曲『順子』を新しい奥さんの名前『さくら』に変えて熱唱した歌声と映像が流され、さくらさんに宛てた手紙も披露された。手紙には「何万語、何億語、言葉を探しても出てくる言葉は“さくら、ありがとう”。こんな苦難な1年をぼく以上に乗り越えてくれて戦ってくれて、ぼくにとって心の支えになってくれて、本当にありがとう」と、献身的に付き添ったさくらさんに対する感謝の言葉がつづられていた。この言葉に会場中の多くの友人が涙し、これもたかじんさんの人脈ともって生まれた面倒見のよさの表れだ、と誰もが思った。
しかし、この賑やかで派手な「お別れ会」の裏では、とんでもないことが起きていたのだ。取材規制である。報道各社の取材用カメラを会場に入れず、会場内には代表カメラが1台だけ。これは全てさくら夫人の指図だったという。
会場に入れなかったワイドショークルーは、会場の外でゲストを待つことになる。何処かのスタッフが言った。「会場に入れないなら、近くの部屋を借りて、順番にゲストのコメントを取りましょう」と。だがこの提案も、さくら夫人の一言で却下されたのである。あくまでも“プライベートなこと”が断られた理由だという。その結果、取材記者はホテルの外に出されることとなった。
ホテルは出入口も多く、外では取材がしづらい。取材クルーを出すテレビ局と出さないテレビ局に分かれた。これではたかじんさんの“派手にやってほしい”という遺志に沿わない結果だ。
その後のさくらさんの周辺からは、たかじんさんの権利関係の話ばかりが流れてくる。「歌唱シーンを使おうものなら、分単位で結構な額の映像使用料を請求されてしまう」(テレビ局スタッフ)。加えて、さくらさんは偲ぶ会の会場では「私の顔は写ってないでしょうね。写っている写真は使わせない」と、かなり激しくメディアに抗議していたと聞く。さらに、さくらさんはたかじんさんの母・光子さんとは折り合いが悪かった。その証拠に、たかじんさんの死を母に知らせたのは荼毘にふした後だったという。たかじんさんが亡くなって、さくらさんと親族の戦が火蓋を切るのではないだろうか。
たかじんさんは、その面倒見のよさから多くの人に愛されていた。そんな故人とは裏腹な態度を取っているさくらさん。周囲に見放されなきゃいいけどね。