原作は「第一回横溝正史賞」を受賞した斎藤澪氏の同名小説。というわけで、ジャンルとしてはミステリー映画になるのだろうか。とはいっても『犬神家の一族』や『八つ墓村』といった横溝正史作品の映画のように、ド派手な殺人現場のシーンがあるわけではない。どちらかというと、ホラー的な演出が光る作品だ。しかし『リング』や『呪怨』のように幽霊や怨霊が出てきて怖いという訳でもない。では、なぜこの作品がトラウマ映画として名高いかというと、“人”そのもの恐ろしさを描いているという部分に理由があるのだ。
この作品は岸田今日子演じる真弓が、終戦直後に自分の前から去った元夫に恨みを晴らすため、娘・麻矢に父親を徹底的に憎ませ「お父さんを探し出してきっと復讐してね」と洗脳を施す描写から始まる。このことが、後に娘が大人になった後の殺人事件に関連してくるのだが、この場面の岸田の表情にかなりの凄みがあって、恐怖を感じるほどだ。とにかく病みっぷりが半端ではない。
タイトルにもなっている「この子の七つのお祝いに」は、有名なわらべ歌『通りゃんせ』の一節だが、真弓は娘の七つのお祝いにとんでもないことをしでかす。祝うどころか呪いをかけるのだ。娘が7歳の誕生日を迎えた朝、手首と喉元を掻っ切って自殺するという方法で。それまで徹底的に父親への恨みを植えつけられた、麻矢の人生がこれで決定的となる。姿を消した父親に母親に代わり復讐をする、この目的が最優先となるのだ。この真弓の自殺シーンがまた強烈だ。娘が朝起きると布団が血まみれという状況で、その血の赤と麻矢の晴れ着の振り袖の色彩が暴力的なまでに焼きつく。他にも、シーンの所々で真弓の歌う『通りゃんせ』のわらべ歌のフレーズが響くが、これも呪いの歌にしか聴こえず、背筋が凍りそうな気分を煽る。
作中で取り扱われる事件は、この真弓の自殺の数十年後に発生するマンションの一室で鋭い刃物によって引き裂かれた女性の死体が発見されたことで始まる。推理パートは新聞記者の根津甚八演じる須藤洋史を中心に進む。そこに、須藤に事件を追うきっかけを与えた、杉浦直樹演じる先輩ルポライター・母田耕一や、岩下志麻演じるバーのママ・倉田ゆき子が関わるといった展開だ。
もちろん、作中で発生する殺人事件の犯人の正体は、現在は名前を変えた麻矢なのだが、この辺りの推理要素はあまり重要ではないかと。なぜなら、目立ったトリックなどもないので、普通に話が進んでいくとなんとなく、「この人じゃないかな?」と、かなり簡単に予想がついてしまうからだ。この作品の重要な点はそこではなく、終盤の大きなどんでん返しにある。
このどんでん返しをネタバレしてしまうと、作品の面白味が薄れてしまうので、明かすのは避けるが、この最後のオチこそが、この作品のトラウマを増幅させる要因となっている。推理モノ、特に2時間サスペンスドラマなどで、よく最後に犯人にあやまちを自覚させ、後悔の念を煽るという描写がある。こういったシーンで視聴する側にも、スッキリとした気持ちを提供するのだが、この作品に限っては、最後のオチが、麻矢にとってはどうすることもできない事柄で、復讐鬼としての救いも、後悔も与えられることがない。もう残された道は狂うくらいしかない。それを芦田伸介演じる実の父親である高橋佳哉の口から聞くのだから、さらに救いようがない。おそらく視聴する側も、このどんでん返しにより、自分を捨てた夫への復讐に娘を使ったという真弓の、常軌を逸した行動に、グロなどの直接的な描写を超えた、恐怖とも嫌悪とも違う、なんともいえない人の業の深さを感じることだろう。
基本的にこの作品の中心人物に、“悪人”は出てこない。必然的にそうなってしまった“どうしょうもない人”しかいない。結局事件に関わる全ての人物に、運命のイタズラでそうなった的な描写が用意されており、それは麻矢を洗脳した真弓も捨てた佳哉も同様で、あえて原因を探すなら「当時の過酷な時代が悪い」としか言えない。恐怖心と悲しみを同時に視聴者に与えて、そのままどん底に突き落とす。爽快感は皆無だが、まとわりつくような嫌な気分が、凄まじく印象に残る。まさに、トラウマ映画と呼ぶしかないだろう。こういう後味の悪い、現在風に言えば「鬱展開」が満載の作品もたまにはいいものだ。
この作品は全てのオチを知った後に、2回目を視聴することをオススメする。真弓の計画の周到さがより強調されて、さらに恐ろしいものに感じることだろう。序盤の貧しいアパートのシーンも全く違うものに見えてくる。さらに、復讐鬼となった麻矢が殺人を犯すシーンもなんともいえない虚しさを感じることは確実だ。
(斎藤雅道=毎週土曜日に掲載)