そんな中、松原誠(大洋→巨人)とともに、“弱小球団”大洋を支えたのが、オバQのニックネームで親しまれた田代富雄内野手(60)だった。そう呼ばれた由来は、プロ入りした当初、天然な受け答えをしていたからとの説がある。2000安打も達成し、好打者で“柔”のイメージがあった松原に対し、豪快な特大ホームランをかっ飛ばす田代は、まさに“剛”。負けてばかりの大洋にあって、田代が放つホームランは希望の光であったのだ。
田代は73年のドラフトで3位指名され、神奈川・藤沢商業から大洋に入団。2年間、2軍暮らしが続いた後、76年に1軍初昇格。77年は4月に11本塁打を放って、月間MVPを獲得。三塁のレギュラーの座を奪い、全試合(130試合)に出場し、35本塁打、88打点、打率.302をマーク。以後、長年、大洋の主力打者として活躍した。80年の36本を最高に、77年から10年連続2ケタ本塁打を記録。通算278本塁打は歴代49位(15年6月10日現在)。その一方で、3割を打ったのは77年の1度だけで、通算打率は.266と高くはなかった。また、三振が多く、77年、80年、82年にはセ・リーグの最多三振を記録している。
86年6月、左手首を骨折し、その影響で成績は下降。出場機会は激減することになり、91年シーズン限りで引退。同年10月に組まれた引退試合では、満塁ホームランを放ち、田代らしい最後を飾った。9年間、大洋のレギュラー三塁手として活躍した田代だが、同時期に掛布雅之(阪神)や衣笠祥雄(広島)らがいたため、好成績を収めても、1度もベストナインに輝いたことがなく、オールスター戦にも77年の1回しか出場していない。その意味では、なんとも不運な選手だった。
指導者としても、田代は有能だった。引退後はテレビ、ラジオの野球解説者やラーメン店経営をしていたが、97年に2軍打撃コーチとして、古巣・横浜に復帰。4年間、同職を務め(00年〜10年まで、横浜の2軍は湘南シーレックスと称していた)、村田修一内野手(現巨人)、吉村裕基外野手(現ソフトバンク)といった和製長距離砲を育てた他、多村仁志外野手、金城龍彦外野手(現巨人)らを一流の打者に育成した。02年は1軍打撃コーチになり、03年は2軍打撃コーチ、04〜06年は1軍打撃コーチを務め、07年から2軍監督に就任。09年5月18日、大矢明彦監督の無期限休養に伴い、1軍の監督代行になったが、チーム状態は上向かず、ぶっちぎりの最下位。田代が指揮を執った107試合の成績は、38勝69敗、勝率.355と悲惨なものだった。当時のチーム力を考えると、いたしかたない結果だったが、田代は育成能力にたけていても、監督には向いていなかったのかもしれない。
翌10年には2軍監督に復帰し、同年オフには、その功績を評価され、球団からフロント入りを打診されたが、現場にこだわった田代は、これを辞退し退団。11年には韓国に渡って、SKワイバーンズのコーチに就任。12年には楽天の2軍打撃コーチとなり、13年より1軍の打撃コーチを担当。同年のパ・リーグ初制覇、日本一に指導者として貢献した。古巣の横浜が“大魔神”佐々木主浩を擁して、98年に38年ぶりのリーグ優勝、日本一を果たした年、田代は2軍担当。つまり、選手、指導者時代を通じ、田代にとっては、1軍で味わう初めての優勝となった。
今年のDeNAは開幕から好調で、10年ぶりのAクラスを視野に入れるが、同球団は田代のような優秀な指導者を流出させてしまった。暗黒時代の大洋にあって、豪快なホームランで光を放った田代もまた、忘れることができないレジェンドの一人である。
(ミカエル・コバタ=毎週火曜日に掲載)