話は少し古くなるが、現地時間の8月24日、ルチャ・リブレの殿堂アレナ・メヒコのリングに上がった栗原は、日本人ルチャドーラの下田美馬&HIROKAと互角に渡り合った。
試合はパートナーのマルセラが敗れたが、場外にダイブしたプランチャは、その飛距離といい、栗原の大いなる可能性を開花させるには十分だった。
またマスクウーマンのA☆YU☆MIでも地方のお祭り興行に出場。なんとCMLL世界王者になったHIROKAをタッグながら卍固めで翻弄した。
栗原はこの短期間のメキシコ遠征を振り返り「メキシコの選手はとにかくお客さんと一緒に試合をしている。今までは闘いに没頭して、そういう余裕がなかった。自分が楽しくなければ、お客さんを楽しますことはできないことを強く感じましたね。でもメキシコのトイレは便器がなくドアも閉まらないので困りましたよ(笑)」。
栗原はデビュー前から未来のスター候補といわれていた。少女時代には北斗晶の闘いに魅せられ、それこそ北斗のマイクアピールを暗記するほどの信者だった。
また、実家が神楽坂で焼肉ハウス『三宝』を経営している関係で、多くのプロレスラーが出入りし、特に地元のLLPW勢にはかわいがられたものだ。
栗原は幾つかの団体を見て歩き、新団体AtoZに入門したが、トラブルに巻き込まれた末、デビュー前に脱退。信頼していた師匠AKINO率いるM'S(エムズ)スタイルで2005年4月、念願のデビューを果たし、GAMIを破ってゴールデン・ルーキーぶりを見せた。
そのいでたちはまさに青春の希望峰。元気あふれる爽やかファイトで新世代の旗手と称されたが、ユニットに限界を感じたM,Sは解散。フリーとしての活動を模索している矢先に肩を負傷し、手術の結果1年半の長期欠場を余儀なくされた。
欠場前の栗原は得意のドロップキックを乱発する、荒っぽいファイトを前面に押し出していたが、08年12月に復帰するとスタイルを徐々に変えることに努めた。
特にA☆YU☆MIという別の顔を持つようになってから、技を丁寧に使い、一発必倒のプロレスにシフトチェンジ。十八番のミサイルキックや裏投げはここ一番でしか出さず、魅せることを重視した闘い方を学んでいった。
美少女スターの一角にいた栗原も7月で25歳を迎えた。若手の“善戦選手”はもう卒業しなければならないキャリアになった。またこのタイミングでビキニショットを解禁するなど、女性らしさを追求し、写真集の話も持ち上がっているという。
同世代の風香は一般メディアが好む特別な扱いを受けている。だが栗原の役目はプロレスの闘いで勝負し、近未来を勝ち取ることだ。
「まずは見た目から変えていこうと、コスチュームも新人時代から着ていた水色から脱皮し、赤にしました。あとは結果を出します! タムクリ(田村欣子とのタッグ)でベルトを奪取することと、AKINOさん超えが身近な目標です。そして、どうにかこうにかプロレスを世間に広げたい!」と目を輝かせる栗原は勝負の時を迎えている。