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独占スクープ 宅見若頭射殺事件 実行犯が出所

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提供:週刊実話

 羽田空港に雷鳴が轟き、雨がアスファルトを激しく打つ。都心へ向かう高速バスのアナウンスも雨音にかき消されるが、乗客は数える程度で、それは空港内も同様だった。新型コロナウイルスの影響で飲食店はほぼ営業を自粛し、とても東京の玄関口とは思えないほど閑散としていた。便が到着するごとに続々と乗客が出口を通り、空港らしい活気に包まれるが、それも一瞬のこと。広いフロアに咳払いが響くような異様な静けさが再び戻った。

 新型コロナウイルスの感染拡大を危惧し、東京都が外出自粛を呼び掛けた「ステイホーム週間」真っただ中で、羽田空港に1人の男が降り立った。20年もの長期服役を終え、北海道の旭川刑務所から満期出所したY元組員(51)。渡辺芳則組長の五代目山口組時代に起きた悲劇、宅見勝若頭射殺事件の実行犯である。

 平成9年8月28日、新神戸駅に隣接したホテルのラウンジで宅見若頭、岸本才三総本部長、野上哲男副本部長が雑談していたところ、4人の男が駆け寄り、宅見若頭を狙って至近距離から拳銃を乱射。宅見若頭の命を奪った。

 当時、山口組若頭補佐を務めていた中野太郎会長の中野会傘下組員らによる犯行と判明し、中野会長に破門処分が下った。9月3日には、流れ弾に当たり意識不明だった歯科医師の男性が死亡したためか、絶縁に変更された。

 暗殺に関与した中野会のメンバーはそれぞれ逃亡するが、計画の総指揮役とされた吉野和利元幹部は、平成10年7月に潜伏先の韓国で変死。事件当時、中野会相談役(のちに副会長)だった弘田憲二・弘田組組長は、平成14年4月、初代宅見組出身の天野組ヒットマンによって沖縄で射殺された。事件から約5年経っての報復だった。さらに、実行犯4人のリーダー格で、宅見若頭に4発の銃弾を放って絶命させた傘下組織の鳥屋原精輝元組員は、平成18年6月に潜伏先で衰弱死し、遺体で発見された。

 他3人の実行犯は、平成10年10月に中保喜代春元組員が逃亡先で逮捕され、翌年2月にY元組員が、7月にはk元組員も逮捕された。暗殺事件の“最後のキーマン”であり、現場指揮役兼見届け役だった傘下の財津晴敏元組長は、16年間の逃亡の末、平成25年6月に逮捕された。財津元組長には無期懲役が下され、実行犯3人は懲役20年の刑に服したのである。

 年月は過ぎ、昨年6月に中保元組員が出所。続いて、令和2年となった今年4月28日、Y元組員も社会復帰を果たしたのだ。

 出所当日、旭川刑務所の周辺には北海道警の捜査車両約10台と、盾を持った機動隊員が配置され、厳戒態勢が敷かれていた。

「事件から時間が経っていて、中野会長は引退し、組織も解散しているが、道警は返しという万一の事態も想定していたのではないか」(山口組ウオッチャー)

 しかし、Y元組員を待っていたのは、報復などではなかった。神戸山口組(井上邦雄組長)の直系組織である池田組(池田孝志組長=岡山)の傘下組員が出迎えたのだ。池田組との繋がりについては後述するが、Y元組員が向かった旭川にある池田組傘下の組事務所でも、道警は厳重な警戒を続けたという。

「出所を待っていたムショ仲間が、Y元組員に会うため事務所を訪れたそうだが、トラブルがあったわけでもないのに、道警に止められて建物内に入れなかったそうだ。今は六代目山口組(司忍組長)との抗争の最中であり、道内でも事件が相次いだから、警察もピリピリしていたのだろう」(同)

 その後、Y元組員は池田組系組員と共に旭川空港へ移動し、羽田着の便に搭乗。東京へ向かったのである。

★入江組長からの言葉

 羽田空港の到着ロビーには、旭川からの飛行機が着く1時間ほど前から、警視庁の捜査員が姿を現し、周辺を巡回。新型コロナウイルスの影響で閑散としたフロアに、スーツ姿の屈強な男たち約10人が立ち、異様な雰囲気が漂った。到着時刻が近づくと、捜査員らは便の運航状況を示す電光掲示板を険しい表情で見つめ、Y元組員を今か今かと待ち構えていた。

 ところが、Y元組員が搭乗した便は午後6時半前に到着していたにもかかわらず、30分経っても出口に姿を現さなかった。微動だにせず出口を凝視し続けた捜査員が動いたのは、その直後だった。ガラス越しに長身の男性が見えた瞬間、捜査員が足を踏み出し、出口を抜けると同時に本人であることを確認するため、声を掛けたのである。

 Y元組員はニット帽を深く被り、眼鏡を掛けてマスクも着用。表情は見えなかったが、ベージュのジャケットと白っぽいズボン姿で、足早に歩く様子からは、ブランクを感じさせなかった。

 Y元組員が社会復帰する直前、業界内にはSNSで出所の情報が広まっており、去就も含めて関係者らの関心の高さがうかがえた。中野会自体は解散しているが、その出身母体の五代目山健組(中田浩司組長=兵庫神戸)への復帰も予想されたのだ。

 実際には、同じ神戸山口組ではあるが、池田組の傘下組員がY元組員を出迎え、東京まで帯同。池田組への加入も指摘された。

「服役中に山口組が割れ、旭川刑務所でも分裂以降は、業界情報を雑誌で得られなくなっていたはずだ。しかも、旭川は長期服役者を収監しているため、新規入所者が少なく、外からの情報も入りにくい。分裂したことくらいは知り得ていただろうが、どこの直系組織が離脱したのかなど、正確なところまで把握するのは難しい状況だったと思われる」(業界ジャーナリスト)

 池田組系組員が同行した背景にも、“スカウト”の意味はなかったという。

「Y元組員とこの池田組系組員は、もともと同じ中野会傘下の至龍会に所属しとったそうや。年齢はY元組員のほうがひと回り年上で、組員は10代の頃から5、6年くらい世話になったらしいで。その恩を忘れずにいて、Y元組員が服役した20年間、ずっと手紙のやりとりをしとったそうや。せやから、組織として出迎えたんやなく個人の縁やな。

 それに、20年ぶりにシャバに戻ったんやで。自分の20年前を思い出してみぃ? 時代が変わりすぎやろ。せやから、じゃあ現役復帰しますなんて普通は即決できんで。東京を経由して地元の関西に戻って、まずは静養するんちゃうか。今は間違いなくカタギっちゅうことや」(関西の組織関係者)

 また、親分の命を奪われた入江禎・二代目宅見組組長(大阪中央)にとって、Y元組員は親の敵である。

「いや、入江組長は、“仕事”の上で実行したのだから恨みつらみはない、とのスタンスやと聞くで。Y元組員に対して報復なんかせん、いうことやな。実際、こういった入江組長の気持ちは、本人にも伝えられたみたいやで」(同)

 抗争中の今、Y元組員の出所は束の間の安息をもたらしたといえそうだ。

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