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歌舞伎役者と関係を持ち旦那を毒殺!「夜嵐おきぬ」伝説【背筋も凍る!女の事件簿】

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 明治時代を代表する「毒婦」と言えば、日本最後の斬首刑となった高橋お伝が有名であるが、華やかさで言えば、この人の右に出る女性犯罪者はそうはいないだろう。
 明治5(1872)年2月20日、小塚原刑場(現在の東京都荒川区南千住2丁目)にて「原田きぬ」という20代後半の女性が、首切り処刑人・八代目山田浅右衛門の手によって斬首刑にされた。
 「原田きぬ」にはピンと来なくても、「夜嵐おきぬ」という名前には聞き覚えのある人もいるかもしれない。「夜嵐おきぬ」は幕末から明治初期に実在した毒殺犯で、その物語は後に映画や講談の題材となった。

 彼女の「華やかさ」は生前に関係を持った男性の職業による。きぬは、人妻でありながら、当時の有名な歌舞伎役者・嵐璃鶴(あらしりかく・後の二代目市川権十郎)と男女の関係となっていた。
 璃鶴は歌舞伎界屈指の美青年として知られており、今で言えば「アイドルが人妻と不埒な恋愛」というところか。
 璃鶴にぞっこんなきぬは、璃鶴と一緒になるため旦那を殺すことを決意。殺鼠剤で毒殺したのである。
 きぬと璃鶴はめでたく結ばれるはずだったが、きぬが璃鶴に「旦那を殺した」ことをしゃべったためか、役人にばれて半年後に逮捕。すぐに死刑が決まったが、きぬはこの時、璃鶴との子供を身ごもっていたため、すぐには処刑されず、出産を待ち、明治5年(1872年)2月20日に斬首刑となったという。

 なお、きぬの最後だが、様々な逸話があり、「夜嵐おきぬ」という通り名は、彼女が最後に読んだ辞世の句(「夜嵐のさめて跡なし花の夢」)から来ているという説もあるが、実際は読んでいないとされ、また、大人しく刑に処されたのは、愛する璃鶴がきぬより先に処刑された(実際は禁固3年ほど)と役人が嘘をつき、後を追うつもりで処刑されたという説もある。

 「夜嵐おきぬ」は実在した犯罪者だが、現在伝わっているものについては創作も多いという。

文:穂積昭雪(山口敏太郎事務所)

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