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日本で猛威を振るった疫病史 〜クルーズ船乗客「隔離」は世紀の愚策〜(2)

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提供:週刊実話

 地球温暖化で感染地域拡大

 天然痘は1955年の患者を最後に、日本では根絶されている。結核は全身の倦怠感、食欲不振、体重減少、37度程度の微熱が長期間にわたって続く。そして、就寝中に大量の汗をかき、咳も止まない。「不治の病」とされ、「白いペスト」と言われる時代もあった。

「結核は太古より存在し、発掘調査で出土した紀元前7000年頃の人骨に結核の痕跡が認められた。日本では平安時代に結核についての記述があり、明治初期まで肺結核を称して『労咳』と呼んでいた。俳人の正岡子規も結核を病み、森鴎外など各界の著名人が亡くなっている。日本で結核による死亡者が最も多かったのはスペイン風邪が流行した1918年でした。この時、人口10万人あたり257人も亡くなっている。日本人の“国民病”でした」(前出・厚生労働省関係者)

 戦後、ストレプトマイシンなどの抗生物質が登場し、結核は完治する病気となった。とはいえ、このところ学校や老人関係施設、医療機関などでの集団感染が増加、結核治療中の患者は日本だけで約27万人にのぼり、新たな結核患者が年間3万人増加しているのだ。

 コロンブスの新世界の発見は世界の生態系、農業、文化の歴史においてエポックメイキングな出来事だったが、多くの感染症がヨーロッパやアジア地域に持ち込まれることになった。すなわち、コレラ、インフルエンザ、マラリア、麻疹、ペスト、天然痘、結核、腸チフス、黄熱病などがユーラシアとアフリカからアメリカ大陸へもたらされた。その最たるものが梅毒だ。

「もともと、梅毒はハイチの風土病。コロンブス一行が現地の女性との性交渉によってヨーロッパに持ち帰ったとされる。アジアへはヴァスコ・ダ・ガマの一行が1498年頃、インドにもたらし、日本には中国から倭寇(海賊)を通じて伝わった」(世界史研究家)

 江戸時代になると、花柳界で梅毒が流行していたこともあって「花柳病」とも呼ばれていた。当時は適切な治療薬はなく、患者は症状がどんどん進行していった。最終的には鼻が取れたり、発狂することもあった。

 しかし、ペニシリンの登場で梅毒治療は一変する。21世紀になると、新たな患者数は年間1000人を下回り、梅毒は過去の病気とされ、関心が持たれることも少なくなった。しかし、2013年頃から徐々に患者数が増え、2018年には新規発症患者が6900人を超えたのである。

 日本の古典などで出てくる「おこり」はマラリアを指す。近年の温暖化で日本でも発症の危険が指摘されている。第二次世界大戦中に沖縄県で発生した集団罹患は「戦争マラリア」とされた。蚊の中で、ハマダラカの一部の種類だけが病原体を媒介し、メスのハマダラカが感染者の血液を吸い、別の人を刺すことによって広がるのだ。

 現在、エイズ、結核と並ぶ3大感染症の1つとなっており、視覚や聴覚を失う後遺症がある。感染者は毎年3億5000万人から5億人と推定。日本を含め、地球温暖化の影響でハマダラカが越冬できる地域が広がり、感染地域がじわじわと拡大する傾向にある。

 令和の新時代、感染症との死闘は続く。

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