80年代バラエティが紹介される際、必ず「伝説」の2文字が使われるが、その言葉がこれほどまでにふさわしい番組は、おそらくないだろう。その所以は、ふたつある。ひとつめは、終了からおよそ24年たった今も、ビデオ・DVD化されていない点だ。番組終了後に開始した『ダウンタウンのごっつええ感じ』(同)、『ウッチャンナンチャンの誰かがやらねば!』(同/“誰やら”)、『ウッチャンナンチャンのやるならやらねば!』(同)は映像化されているが、“夢逢え”は再放送さえされていない。理由は、著作権だといわれている。
深夜枠から23時台に昇格したとき、松下電器産業の1社提供に切り替わった。契約として、「Panasonicは世界に通用する」といった企画を、番組内に入れるという条件があった。そのため、オープニング映像はミュージッククリップ仕立てにして、ユニコーンと香港で撮影。音楽提供をしたのは、サザンオールスターズだ。さらに、レギュラーコーナーの「バッハスタジオのある町」では、メンバーが合唱隊にふんして歌唱を習得。「バッハスタジオII〜ホコ天キングへの道〜」のコーナーでは、布袋寅泰がテーマ曲を手がけ、メンバーは楽器を学んで、演奏をした。ゲストアーティストはリンドバーグ、憂歌団、ユニコーン、JUN SKY WALKER(S)、聖飢魔II、プリンセス・プリンセス、爆風スランプほか超一流がズラリ。結果的にこれが、著作権問題の障壁になったようだ。
反面、音楽を会得したというメリットも多分にあった。番組終了の90年代前半、浜田は小室哲哉プロデュースによるH Jungle with tで、ウンナンはボケットビスケッツ、ブラックビスケッツとして歌手デビュー。いずれもミリオンセラーになっており、芸人でも楽曲で好実績を残せるという金字塔を打ち立てた。
しかし、“夢逢え”といえばやはり、数々のコントと、シチュエーションドラマ。ここで発信されたコントは、あまたの芸人に多大な影響を与え、今のコントの叩き台になっており、モデルケースでもある。土曜23時台で最高視聴率20.4%を叩き出しただけのことは、十二分にあるのだ。
代表コントは多々あるが、“コメディアン清水ミチコ”を確固たる地位にしたのは、“伊集院みどり”シリーズだろう。ワンレンにド派手ファッション、おばけメイクの自信家・みどりが、見た目としゃべりが“わき毛の女王”黒木香をバカにしたような風貌で、周囲を陥れる。その顔面破壊力はすさまじく、のちの女性芸人のお手本になるような不気味さとスケールだった。当時のファン投票で1位になった、超人気キャラクターだ。
松本でいえば、シチュエーションドラマ「いまどき下町物語」に出演していた、ヘビ柄の警察官・ガララニョロロだ。口癖は、「本官は、小悪魔ニョロよ」。オチ付近では毎回、スタイリーマシンが登場して発砲、罰ゲーム、だまし撃ちに発展。コントにありがちなドタバタ劇で幕を閉じるのが、お決まりだった。その松本が、謎の顔面黒塗り外国人で、コーヒー豆の売り子・ボブにふんしたのは、“熱血宅配ボーイ・南原二郎トラブルファイル”シリーズ。ナンチャンが主役のこのコントは、コーヒー宅配店・BY THE WAYが舞台。松本が、「ボケじゃないです。ボブでーす」と発するのが、名シーンだった。
さらに、今となっては超貴重な、ダウンタウンとウンナンによる4人漫才・タキシーズもあった。登場の際の前口上は、♪またも出ました、タキシ〜ズ〜♪で、関西人の松本が浅草芸人さながらの口調で、「バカ言ってんじゃないよぉ」とツッコむのが常だった。
そんな“夢逢え”は、視聴率が好調のまま、91年11月30日に終了した。伝説と呼ばれる所以のふたつめは、この散り際だ。ウンナンは初のゴールデン冠番組“誰やら”が決まり、戦友といえる野沢が、米国ニューヨークへ移住するため、番組を降板。最終回までは5人で乗りきったが、6人体制を尊重していたメンバーは、視聴率低下の前に、退く決意を固めたのだ。
しかし、フジはドル箱だった同番組を終えんさせたことによって、さらなる進撃を遂げる。後番組としてスタートさせたバラエティ番組で、あの国民的スーパーアイドルグループを生みだすのだから−−。
(伊藤雅奈子=毎週木曜日に掲載)