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ノア前相談役・百田光雄氏インタビュー

 プロレスリング・ノアの前相談役、百田光雄氏が退団してから早1カ月が過ぎた。そこで、現在はフリーランスとなった百田氏を改めて直撃。団体の象徴でもあった三沢光晴さんを失った方舟マットをどう思うのか。また、年内に日本武道館で開催予定だという自身の引退試合についても聞いた。

 −−なぜ7月12日の後楽園大会に来場したのか。
 「辞表を提出した日(7月7日)は会社に選手が数人しかいなかったので、選手全員に挨拶するつもりで行った」

 −−辞表提出報道後、選手の反応は。
 「いろんな選手から電話がかかってきた。小橋選手はオレの辞表が受理される13日の役員会まで慰留を求めてきた。秋山選手もそうだった」

 −−12日は約50分間に渡り不満を爆発させていたが。
 「不満という言い方はおかしい。基本的にはごく一部の事務方の人間に対しては不満は持ってるけど、選手はどこの団体にも負けないくらい素晴らしいし、会社に対して不満を持ってるわけではない。人事に関しては不満というよりは異議がある。誰が見ても納得できる人事ではないという風に感じたけどね。オレはスキャンダルを起こそうとも思ってないし、会社を潰そうと思ってないけれど、納得はいかない」

 −−小橋を新社長に推していたが。
 「小橋選手の体調もあるけど、『練習もビシっとやって、トップで頑張っている選手が社長になる方が他の選手も納得できる。信頼がおけるということで小橋選手がなるのがいい』と言った。丸藤を副社長にするのは問題ない。社長が将来的にそういう展望を持ってたかもしれない。だけど、あの段階で社長は自分が亡くなるなんて思っていない。現役引退を考えることはあっても、社長を辞任することはまず考えてないだろう。そういう意味であの人事は無理があり過ぎるんじゃないかとは言った。それに、ノアの旗揚げ当時から頑張っている秋山選手を役員にするのが普通じゃないかと。誰が見ても納得できるのはそういう人事じゃないかと言った」

 −−三沢さん追悼興行(9・27日本武道館&10・3大阪府立体育会館)へのオファーは。
 「何もない。だけど、三沢社長が選手として全日本に入った最初の頃はオレとよく試合をやっていたし、最期に社長が病院に行く時に付いていった選手はオレだけだから。看取ったのはオレだって気持ちはあるんでね。三沢社長に対する想いは人一倍あると思う」

 −−三沢社長が亡くなって2カ月経った。
 「四十九日が7月31日だったから、オレはオレで供養はしました。社長の遺品に煙をあてて拝むと供養になると人から聞いたんで、家族全員でやった」

 −−退団後、これまでは何をしていたのか。
 「いや別に。フリーターなんで(笑)。ただ、現役を引退したつもりはないから、引退試合だけはやりたいと思っている。ノアの選手に引退試合があるときは出てくれるかって聞いたら、全員『喜んで』って言ってくれてるし、フリーの高山とか健介もね。40年間のケジメとして最後はキチっと辞めたいなとは思っている」

 −−引退試合はどこでやりたいか。
 「スケジュールが合えばだけど、最低でも後楽園、できれば武道館ぐらいでやりたい気もする。別に武道館でやったからってメーンイベントに出ようとも思っていないし。オレは昔から“6時30分の男”って呼ばれてたんだから第1試合で構わない。61歳と10カ月の最年長出場記録を破りたいけど、あんまり間を空けても間延びして忘れられちゃうし。出来れば年内にやる方がいいのかなとは思ってる」

 −−最後にノアについてメッセージを。
 「田上社長に前向きに頑張ってほしい。社長だったら勝ち負けというより、試合に対する姿勢は厳しいものを求められて当然。社長の試合を見て他の選手たちが『オレたちも頑張らなきゃ』って気持ちになるんだろうから。社長業ももちろん大事だけど、まずは試合でやる気を見せなきゃいけないと思う」

<プロフィール>
 ももた みつお=本名同じ。東京都港区出身。1948年9月21日生まれ。血液型A型。日本プロレス界の祖である力道山の次男で、実兄はノア取締役だった故・百田義浩氏。70年11月17日、日本プロレス長野・上田市民体育館でデビュー(対新海弘勝戦)。その後、全日本プロレス、プロレスリング・ノアの旗揚げに参加し、ノアでは取締役副社長を務めた。今年7月10日付けで同社を退団。現在はリキエンタープライズに所属し、試合に向けて毎日練習している。

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