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【記憶に残るプロ野球選手】第9回・人気先行のイメージ強いが実力も備えていた定岡正二

 “甲子園のアイドル”といえば、最近では斎藤佑樹投手(早稲田実業→早稲田大→日本ハム)が思い浮かぶ。今から約40年前、まさに“元祖・甲子園のアイドル”として、大フィーバーを巻き起こしたのが鹿児島実業の定岡正二(58)だった。1974年夏の甲子園、同校3年でエースだった定岡は、これまた注目の的だった原辰徳(当時1年生)擁する優勝候補の東海大相模と対戦。延長15回の攻防の末、鹿児島実業は東海大相模を破り、ベスト4に進出した。定岡は防府商業との準決勝戦で、手を負傷し途中交代を余儀なくされ、鹿児島実業は準決勝で敗退した。投手としての実力に加え、甘いルックスで女性ファンから熱狂的な人気を得た定岡は、甲子園のアイドルとなったのだ。

 プロ側も定岡の実力を高く評価し、同年のドラフト会議で読売巨人ジャイアンツが1位指名し、プロ入りした。実のところ、定岡は巨人ファンではなく、阪神入りを希望していたという。1年目の自主トレでは、多摩川グラウンドに約2万人のファンが押し掛けるほどの人気だった。だが、甲子園で活躍した定岡にとっても、プロの水は甘くはなく、2年間は2軍暮らしが続いた。3年目の77年に初めて1軍に昇格したが、なかなか、1軍に定着することはできなかった。

 その素質がようやく開花したのが、入団6年目の80年。定岡はプロ初勝利を挙げると、主に先発で9勝(8敗)をマーク。翌81年には初の2ケタ勝利(11勝7敗)を挙げ、4年ぶりのリーグ優勝、日本シリーズ制覇に貢献。すっかり、巨人のローテーション投手に定着した定岡は、82年には江川卓、西本聖とともに3本柱として活躍し、自己最多の15勝(6敗)をマークした。定岡が投げる時は打線も活発に援護していた印象があるが、だとしても15勝はそう簡単にはできない。実力があってこそのものだ。

 ところが、同年をピークに、その後、下降線をたどり、83年は7勝7敗、84年は5勝10敗に終わった。85年には、ローテーションから外され、リリーフ専門となり、自己最多の47試合に登板。4勝3敗2セーブ、防御率3.87の成績を収めたが、斎藤雅樹や槙原寛巳の台頭もあり、王貞治監督(当時)の構想外となる。同年シーズン終了後、定岡は近鉄・有田修三捕手との交換トレードを通告される。ところが、これを拒否した定岡は、野球を続けることは許されず任意引退の措置が取られる。まだ29歳の若さだった。

 定岡がトレードを拒んだ理由は、元木大介のように「巨人で現役を終えたいから」といったものではなかったようだ。定岡なりに巨人に貢献してきた自負があった。82年には先発で15勝もしたし、この年は中継ぎという黒子に徹し、47試合に登板した。しかし、トレード通告は電話一本だった。球団の非情さに態度を硬化した定岡はトレードを拒否した。後日、定岡は「せめて球団事務所で直接言ってくれたら、あそこまで頑なにならなかったかもしれない」と語っている。

 現役に未練がなかったわけではない。事実、翌86年にはドジャースの春季キャンプに参加。トミー・ラソーダ監督からは「3Aなら」と誘いを受けたが、これを断った。当時、定岡は右ヒジ痛を抱えており、マイナーからのメジャー挑戦には二の足を踏んでしまったのだ。ユニフォームを脱いだ定岡はTBSのスポーツキャスターとなった。その後、「とんねるずの生でダラダラいかせて!!」に出演するようになると、その天然ぶりがウケてブレイク。バラエティ番組に引っ張りだことなる時期もあった。しかし、芸能界にすがりつくことはなく、地元・鹿児島で野球指導者としての道を歩み始める。05年、アマチュア野球チーム「鹿児島ホワイトウエーブ」の監督に就任。翌06年には、社会人野球のクラブチーム「薩摩」の設立に動き、初代監督となり、現在は総監督を務めている。

 最近ではテレビで見かけることも減って、「芸能界から干された」とも言われるが、実際には野球の仕事を優先させるためで、指導者の他、今もTBSラジオ「エキサイトベースボール」では解説者の仕事もこなしている。高校時代の流れから、“人気先行”のイメージが強い定岡だが、80年〜82年の3年間はしっかり実績も上げた実力派だった。通算勝利数は51勝(42敗)に過ぎないが、巨人に貢献した選手の一人だ。

(ミカエル・コバタ=毎週火曜日に掲載)

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