昨年1月、星野は野球殿堂入りを果たした。そのとき、お祝いの電話を入れたのが最後だった。
私は元スポーツニッポン記者でマスコミの人間であったが、星野とは東京六大学時代からの付き合いがあり、同学年でもあったため、大学を卒業してからも親しくさせてもらった。
正直、すい臓がんを患っていたことは知らなかったが、現場の最前線で闘ってきた星野は常に“病”とも闘っていた。“仙友”の田淵幸一はこう語っていた。
「まだまだ監督をする気迫は持っていたが、阪神監督時に無理を押して采配を振るっていたから、体調面はずっと心配だった」
阪神監督時代、私は東京の宿舎をよく訪ねたものだ。その際、星野の部屋には常に10種類以上の薬が置いてあった。私の知る限りでは糖尿病と心臓病のため、グリセリンなども用意されていた。
「絶対に言うなよ!」
薬のことを星野からこう口止めされていた。
'05年、星野は巨人監督を要請されている――私は星野と近い関係者から情報を得た。周辺取材すると、すでにコーチングスタッフまで決まっていた。直接、星野に電話で確認したら「誰に聞いたんだ。うまくやれ!」と否定しなかった。
これまで間違った情報を星野にぶつけると「書いたら(記事にしたら)恥をかくぞ」と忠告してくれたので、“うまくやれ”は私なりに記事化のゴーサインと受け止めた。“星野巨人監督”は『週刊現代』で緊急連載した。結果的には、巨人OBなどの圧力により、星野の巨人監督誕生は実現しなかったが…。
私の取材では、もし北京五輪('08年)で星野ジャパンが金メダルを獲得していれば、間違いなく星野巨人は誕生していた。だが、ご承知のように星野ジャパンは惨敗(4位)し、幻となった。
ミスター長嶋茂雄に憧れ、その理想像を追い続けた闘将は静かに旅立った。
(スポーツジャーナリスト・吉見健明)