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平将門の怨念は今も残っている

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画像はイメージです。

 東京・大手町にある平将門の首塚は有名だ。今でも祟りがあるとされ、一種の心霊スポットとしてみられている。今回はそこで撮影された不思議な写真を紹介しよう。

 京都の朝廷と対立し、関東に独立国家を築こうとしていた反逆のダークヒーロー、平将門。彼は、死した後も怨霊となり日本中を震撼させた。
 承平5年に勃発した承平・天慶の乱は彼の運命を大きく変えた。当初は朝廷への反逆などという大きなものではなく、一族同士の紛争であった。しかしながら、他の者達の争いをも最小限に抑えようと考え、平将門はそれらの間に介入していった。そのうち、彼を排除しようと策謀する者が現れ、「平将門は朝廷に謀反の意あり」と讒言した。一度は謀反ではないと証明できたのであるが、その後争いを鎮めるためとはいえ、国府を攻めてしまう。弁明は無駄と考えた将門は、己が新皇となり、新たな国家を作り上げようという考えに至った。これを完全な反乱であるとした朝廷は、藤原秀郷と平貞盛を遣わせる。強大な武力を誇っていた将門の軍勢であるが、兵らを帰休させていたところを狙われた。たった400の軍で立ち向かったのだが、将門は敵方の弓矢で倒れる事となる。その後、首だけ京に持ち去られ、京都七条河原に晒された。しかしながら、3カ月後、その首は雷鳴と共に宙へ飛び去っていった。そして、首が力尽き落ちたところ、それが現在の将門の首塚である。
 その後、魂がこの世に残り怨霊になるのだが、将門と同じく怨霊として名を馳せた菅原道真とは性質が異なる。道真は、自分を京から遠い大宰府に追いやった者らに祟りを与えた。そして、悲願を叶えた後は、学問の神となり人々にとってよき者となった。
 対して平将門は己の墓や名誉を傷つけるものに祟りを与えた。まず平将門の怨霊が現れたのは、江戸時代。
 成田山にある東光寺に保管されていた「将門の犬屏風」が盗賊に盗まれた時であった。盗賊らはその絵を売り払ってしまったのだが、その後盗賊の一人が狂ってしまう。その上、「犬の絵を八幡宮へ返せ…返せ…」と大声で喚きだす始末。見かねた盗賊の家族は絵を買い戻し、東光寺に返したところ、その症状が治ったのだという。関東大震災後、首塚の上に大蔵省の仮庁舎を建てた時はその無礼に怒り、将門の祟りが爆発した。当時の大蔵大臣を含め、関係者数十名が次々と変死する事件が起きた。昭和2年4月27日に将門の供養が行われ、神田明神の宮司によって実施され祟りは収まった。ように見えたのだが、昭和15年6月に再び事件は起こった。突如落雷が大蔵省を襲い、大火事となったのだ。その落雷現場が将門の首塚付近であった事から、祟りではないかという噂が立ち上った。その時も彼を供養し、怒りを静めた。
 今なお平将門の念は残っている。将門の首塚の周りには三井の関連会社ビルが囲む様に立ち並んでいるのであるが、首塚にお尻を向けて座ってはいけない、という決まりがある。そして、座ったものには死が与えられる、といううわさである。また、平将門の怨念を証明するような写真を筆者は入手した。わが会社の従業員、梅季颯が撮影したのであるが、よく見ていただくと目玉のようなものが2つあるのがお分かりになると思う。彼の念は、良いも悪いも含めて、現在進行形で首塚に存在する。呪い殺されたくなくば、墓に悪戯などはしない方が賢明であろう。

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