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田中角栄「怒涛の戦後史」(6)内閣総理大臣・吉田茂(中)

 戦後第2回の昭和22(1947)年4月の総選挙で初当選を飾った田中角栄は、目まぐるしく変わる政党の離合集散の中で、第1次内閣を発足した吉田茂首相の民主自由党に所属することになった。

 「頂上を目指すなら、まず大将の懐に入ること」を胸に置いていた田中は、まずはその懐に一歩近づいた。それは、吉田のもとに優秀な官僚や有力議員などが集まっており、人材の宝庫たる「吉田学校」への入学を目前にしたということだった。この「吉田学校」こそ「保守本流」として政治を牛耳っており、吉田は「ワンマン」と呼ばれた超実力者だったのである。

 田中の当選当初、貴族趣味で鳴っていた吉田は、田中を「どこの馬の骨か」程度にしか見ていなかった。しかし、一方で“変わり者好き”でもあった吉田は、「チョビひげ野郎」の異名をもらい、すこぶる威勢のいい田中に、1年生議員ながら民自党の「選挙部長」の肩書を与えたのだった。

 吉田の“変わり者好き”について言えば、待合の座敷で一杯入った巨体の福永健司という代議士が、面白おかしく日本舞踊を踊ってみせたことを気に入り、当選1回のこの福永に、なんと幹事長起用を模索したことさえあった。のちに福永は、官房長官になるなど大物に成長していく。すなわち、田中の選挙部長程度の就任などは、吉田にとって屁のカッパ的な発想だったのである。

 一方、田中は吉田の民自党に入る前の民主党時代に、衆院の国土計画委員会に所属していたが、建設省の設置と住宅問題をめぐり、当時の片山哲首相とこんな質疑を行っていた。折から時のGHQ(連合国軍総司令部)は、天皇制国家を握っている行政の要とにらんだ内務省の解体を命じていた。片山首相は、その内務省の一部を代替するものとして「建設院」を提案したが、田中は断固こう反論したのだった。

 「私は土木建築業者でございまして、わが国の建築行政は多岐にわたり、その一例として終戦後の特別建設工事があります。すなわち、進駐軍に関する渉外工事であります。終戦後に、土木建築業者がインフレを助長したということは、まことしやかに流布されたものにすぎないのであります(要約)」

 田中は片山首相に、これからの戦後復興における建設行政は、とても建設院といった程度ではもたない、建設省でなければ何もできないと力説した。そして、今後の住宅問題にもこう切り込んだのだった。

 「住宅については、現在600万戸が不足であると考えております。戦前のように復帰するまでには、この住宅問題だけで少なくとも30年間かかるというのが現状であります。米もない、着る物もない、住宅もないということになりますと、人間、生きるための必須条件であるところの衣食住はどうなりましょう。しかも、住宅問題は一家の団らんの場であり、魂の安息所であり、思想の温床であります。その住宅が30年間も戦前に戻れない状態であったならば、これはエライことになるのであります(要約)」

 すでに、この時点で田中の頭には、戦後復興のためのあらゆる生活インフラ整備に対する制度設計、そのための予算をどうするかが巡っていたのだった。

★「吉田学校」入校への“奇手”

 すなわち、田中にとっては吉田による選挙部長ポストと、その前に国土計画委員会に所属していたことは、のちに実力者の階段を登っていくために大きな役割を果たしたことになる。

 なぜならば、全国の選挙事情に通じていたことで若くして人を差配できた一方、内務省が間もなく解体されて田中が主張した建設省となったことで、田中は戦後復興への建設行政に絶大な力を保持したということである。やがて田中が手をつける荒廃した戦後の生活インフラ整備において、住宅、道路、鉄道など誰も成し得なかった関連の議員立法33本の成立も、これで可能になったのだった。

 こうした中で、吉田はこの「チョビひげ野郎」の政治家としての資質を見抜いていくことになる。一方で、田中も「吉田学校」入校に、手をこまねいていたわけではなかった。そのために、田中はこんな“奇手”も使ったのであった。

 第3次吉田内閣時の民自党幹事長は、のちに農林大臣などを歴任し、「タヌキ」の異名をとった吉田側近の広川弘禅であった。弘禅というくらいだから広川は坊主あがりで、吉田の信任は厚かった。将を射んとする者は、まず馬を射なければならない。吉田の覚えをよりめでたくするため、田中は一計を案じてこの“弘禅攻略”に出たのだった。

 何をやったか? 目先の利く田中は、まず弘禅が骨董趣味であることに目をつけた。田中はもともとそうした趣味がなく、価値なども分からぬことから、適当なものを買い集めてはプレゼント攻撃していた。しかし、弘禅はあまり嬉しそうな顔をしない。ひらめいたのが、弘禅が坊主は坊主であってもナマグサであることだった。改めてプレゼントとしたのは、極彩色の目もあざやかな春画であった。

 これには弘禅も大いに感激し、これをキッカケに、以後、なにくれとなく「田中角栄クン」と声をかけてくるようになった。同時に、弘禅の“進言”も手伝ってか、吉田の覚えもよりめでたくなっていくのである。
(本文中敬称略/この項つづく)

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【著者】=早大卒。永田町取材49年のベテラン政治評論家。抜群の政局・選挙分析で定評がある。著書に『愛蔵版 角栄一代』(セブン&アイ出版)、『高度経済成長に挑んだ男たち』(ビジネス社)、『21世紀リーダー候補の真贋』(読売新聞社)など多数。

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