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プロレスラー世界遺産 伝説のチャンピオンから未知なる強豪まで── 「上田馬之助」日本プロレス界の発展に尽くした“金狼”

 日本人では初の本格ヒール(日系レスラーを除く)として新日本、全日本、国際プロレスの各団体で暴れ回った上田馬之助。悪逆の限りを尽くしながら、日本マット界への思い入れは人一倍であったという。

 「悪役の方が、実は裏ではいい人」というのは、プロレス界においてよく言われることだが、確かにそうした傾向はあるようだ。
 誰もがスターを目指す中にあって、ベビーフェイス(善玉)を盛り立てる憎まれ役をあえて引き受けるのだから、お人好しとすら言えようか(もちろん例外はあるのだが…)。だいたい根っからの悪人が凶器攻撃などの反則を犯した日には、どんな大事故が起きるか分かったものではない。

 そんな“悪役=善人”をまさに地で行ったのが、上田馬之助であった。
 「生前の上田は『悪役のイメージが崩れるから』と公表を拒んでいたが、障害者施設への慰問などボランティアに熱心だったことは、関係者の間ではよく知られた話でした」(スポーツ紙記者)
 インディー団体IWAジャパンの巡業中、自動車事故に遭った際には、自身が全身麻痺の重傷を負ったにもかかわらず、運転していた営業部員が亡くなったと聞くと「なんで若い者が死ななきゃいけないんだ。俺が死ねばよかった」と、人目もはばからず号泣している。

 日本プロレス時代に“裏切り者”の汚名を着せられた件も、そうした人の好さに起因している。アントニオ猪木が腐敗した会社幹部の一掃を画策した際、当初は賛同していた上田が密告し、それが猪木追放につながったという事件である。
 しかし、のちの関係者の証言によれば、猪木の“日プロ乗っ取り”を幹部に伝えたのは、上田を詰問してその計画を吐かせたジャイアント馬場だったという。これについて上田は「(馬場をエースに担いでいた)当時の社内状況ではとてもそのことを言える状態ではなく、自分が罪をかぶらざるを得なかった」と、後年に語っている。
 日プロ幹部にしてみれば、「上田を悪者にして事態を収束し、これからも馬場と猪木で稼いでいこう」との気持ちがあったのだろう。
 しかし、当事者である猪木だけでなく馬場までもが退団していく中で、冷遇された上田は、日プロ崩壊のそのときまでリングを守り続けた。裏切者とのそしりを受けようが、尊敬する力道山が創設した団体を離れることができなかったのだ。

 その後、いったんは馬場率いる全日本プロレスの所属となるが、これを離脱して1974年頃からアメリカへと主戦場を移す。東洋人としては珍しく、長身で見栄えのする上田は、アメリカマットで悪役人気を高めることになるが、そうなると放っておかないのが日本のプロレス界である。
 当時としては、まず本格的な日本人ヒールというのが珍しく、日プロ仕込みの技術があって仕事はバッチリ。外国人と違って交渉もしやすく、何よりファイトマネーが安くつく。
 「安いというのはあくまでも日本の団体の都合で、本来ならフリー参戦の上田には、外国人並みの処遇をするのが当然。しかし実際のところは、団体所属の日本人選手と同等の扱いだったようです」(同)
 新日本プロレス参戦時には、主にタイガー・ジェット・シンのパートナーを務めた上田だが、これはまだ粗削りだったシンを手助けする“お守り”の意味も大きかった。それでいてファイトマネーは、シンよりも格段に安かったという。

 ならばアメリカで、トップヒールを目指した方がビッグマネーをつかむチャンスはあっただろう。'74年の渡米時には骨を埋める覚悟で、家族も連れていっている。しかしながら、上田は日本での闘いを選んだ。
 「その理由は一つではないかもしれないが、上田にとっては“日本のプロレス界のため”という意識が大きなウエートを占めていたことは確かでしょう」(同)
 言うなれば、メジャーの契約を蹴って広島カープへ戻った、黒田博樹のプロレス版といったところだろうか。師と仰ぐ力道山がつくった日本のプロレス界、これに対する上田の愛情は深く、日プロ時代に交付されたプロレスラーのライセンス証を終生にわたって肌身離さず持ち続けた。

 インディー団体に参戦するようになってからも「力道山先生の頃の本格的なプロレスを復活させたい」と、事あるごとに口にしてきた。
 自動車事故で車椅子の生活となった後、自身のリングネームを九州の小さな地域団体の選手に譲って2代目を名乗ることを許したのも、「自分はリングに上がれなくても何か役に立ちたい」との気持ちがあってのことではなかったか。

 「力道山の頃とは時代が違う」との声もありそうだが、自身の損得よりも日本プロレス界の発展を願った上田の遺志は、決して軽んじられるべきではない。

上田馬之助
1940年6月20日〜2011年12月21日。愛知県出身。身長190㎝、体重118㎏。得意技/竹刀攻撃、クロスチョップ。

文・脇本深八(元スポーツ紙記者)

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