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急浮上、幻の古文書『阿波風土記』が裏付ける“邪馬台国四国説”、邪馬台国は阿波だった!?

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 いつの時代も人の心を捉えて離さないのが邪馬台国論争である。主な仮説には九州説や畿内説があり、変わった比定地では愛知説、沖縄説、台湾説などがある。近年、邪馬台国ファンの間で熱く語られているのが、邪馬台国四国説である。かつて筆者の子供時代、『邪馬台国は阿波だった』という本が発売されて話題となったが、最近また、インターネットで邪馬台国四国説が注目を集めている。本稿ではその可能性を探ってみよう。

 方角的には九州説が有力だが、時間や距離があまりにも合わない。畿内説ならば距離的には申し分ないが、方角が全く違う。長らく九州説と畿内説が対立してきた理由はそこにある。それが畿内に近い四国東部に設定すると、方角と距離の矛盾が一気に解消されてしまうのだ。まず、末廬国などほぼ確定している地域は良しとして、九州北部から出航してみよう。九州と四国の間の洋上を南下したあと四国の南の沖合に回りこむ。さらに、四国の南の地域(室戸あたりか)に上陸、そのまま徳島まで陸路で行ったとしたら、畿内説や九州北部説より、方角と距離にまだ説得力はないだろうか。

 四国の阿波に何か古代の秘密があるというのは、徳川光圀も気が付いていたようで、江戸に修史局を開き大日本史の編纂に乗り出した後、元禄10年(1697)、突然、徳島藩や老中土屋相模守政直を呼びつけている。そして、阿波及び淡路両国にある古代天皇の墳墓の調査を命じた。つまり、水戸黄門は古代の天皇の墓は淡路と徳島にあると睨んでいたのだ。

 学者たちもきな臭い動きをしている。阿波出身の国学者・小杉榲邨は、邪馬台国阿波説においてキーとなる騒動を起こしている。明治5年、小杉が『阿波古風土記考証』を出版した時、何故か回収騒動に発展している。しかも、当時蜂須賀家と徳川家にあったはずの『阿波風土記』の原本さえも所在が不明になってしまったのだ。

 この回収騒動の理由は不明である。一説には天皇家のルーツに関わる記述があったため、明治政府が問題視して回収に踏み切ったとも言われている。もちろん、『阿波風土記』の存在は妄想ではない。幕末の頃までは様々な文書に部分的に引用されているのだ。

 ちなみに、幾つか残る『阿波風土記』の断片のうち、興味深いものを紹介しよう。だが、ここから先は次回に譲ろう。

(山口敏太郎)

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