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プロレスラー世界遺産 伝説のチャンピオンから未知なる強豪まで── 「橋本真也」新日の絶対エースになれなかった“破壊王”

 力感あふれる豪快なファイトと憎めないヤンチャな人柄で絶大な人気を誇った橋本真也。たびたび見舞われた挫折とそれを乗り越えていく姿に、胸を熱くしたファンは多いだろう。その死から13年がすぎた今もなお、入場曲『爆勝宣言』とともに「はっしもと!」コールが脳裏に響く。
 ※ ※ ※
「出来の悪い子ほどかわいい」と言っては通算防衛20回の“ミスターIWGP”に対して失礼か。しかしながら、多くのファンが橋本真也に対して抱く感情は、それに近いものがあったに違いない。

 1984年に新日本プロレスに入門した橋本は、海外武者修行を経た’88年7月、同期の武藤敬司、蝶野正洋とともに闘魂三銃士として、有明コロシアム大会のメインイベントに登場。藤波辰爾&木村健悟&越中詩郎との6人タッグマッチにおいて、圧倒的な内容で勝利してみせた(藤波の反則負け)。

 さらに、橋本単体として注目を集めたのは、翌’89年4月、プロレス界初となる東京ドーム大会でのIWGP王座決定トーナメントだった。

 1回戦で長州力(サソリ固めに来るところを丸め込み)、続いてソ連人レスラーのビクトル・ザンギエフ(足4の字固め)を破った橋本は、決勝戦でビッグバン・ベイダーのラリアット2連発に沈んだものの、巨漢の外国人エースと真っ向からぶつかり合う試合ぶりで、次期エース候補の筆頭に躍り出ることとなる。

 ちなみに、同じ三銃士の蝶野は、同トーナメント1回戦でベイダーに敗退。武藤はアメリカ遠征中で同大会には不出場だった。

 このドーム大会後、アントニオ猪木は参院議員となってリングから距離を置き、また、本来エースであるべき藤波も同年6月に腰の負傷で長期欠場となったことで、橋本へのファンの期待はうなぎ上りとなっていく。

「新日のテレビ放送が’88年にゴールデンから土曜夕方4時に変更されたことで、当時の橋本については知らない人も多いでしょうが、とにかく会場での声援はすさまじいものがありました。その勢いのままエースを継承するものと思ったのですが…」(専門誌記者)

 橋本のエース路線にまず立ちはだかったのは長州だった。’89年10月の後楽園ホール大会で、暴動寸前のケンカマッチを繰り広げると、翌シリーズ『’89ワールドカップ争奪リーグ戦』(外国人を含むリーグ&決勝トーナメントによるシングル戦の大会)では、その両者が決勝に駒を進める。
「ラリアットで倒れたら坊主になって一生、長州の付き人をやる」(橋本)
「キックで後ろに倒れたらプロレスをやめてやる」(長州)
 互いに意地を張り合った一戦は、長州が稲妻レッグラリアートからのドラゴンスリーパーでフィニッシュ。一旦は三銃士に傾きかけた時計の針を巻き戻して、「まだまだ俺たちの時代だ」と言わんばかりの勝利を収めた。

★小川との抗争が新日退団の要因
 長州戦後、橋本は下降線をたどる。武藤がザ・グレート・ムタとの二刀流でIWGPを戴冠し、蝶野が夏のG1クライマックス連覇を果たす中、橋本はトニー・ホームとの異種格闘技戦で一敗地にまみれ、天龍源一郎には連敗を喫することになった。

「異種格闘技路線で行くか否か、この時期にはフロント側にも迷いがあったようです」(同)

 しかし、その天龍戦を契機として橋本は復活。’93年9月にムタを破ってIWGP王者に返り咲くと、2度の陥落と奪回を挟んで’97年8月までその座に君臨した。これにより名実ともに新日トップとなったかに見えたが、ここでまたもや長州の影が立ちはだかる。

「3度目の王座陥落となった相手は、長州の直弟子である佐々木健介。長州は’98年1・4で引退を宣言して現場監督に就任すると、健介の売り出しにやっきになったのです」(同)

 ’98年のG1でこそ初優勝を果たした橋本だが、新日マットの主流からは外され、独自のnWo路線で人気を博していた蝶野や武藤にも再び遅れを取ることになる。

 そこに現れたのが小川直也であった。’97年の初登場時は1勝1敗と面目を保ったものの、小川が格闘スタイルに変貌した’99年の1・4で一方的に潰されてしまう(結果は無効試合)。

 以降、橋本の全敗に終わった小川との抗争については今も言説さまざまだが、結果として、新日退団の大きな要因となったことに異論はあるまい。その後も新団体ZERO−ONEでの活躍などプロレスシーンをにぎわせた橋本だが、そもそもファンからの支持が厚かった新日時代に絶対的エースの座に就いていたならば、のちの運命もまた違っていただろう。

 そうならなかったのは単に巡り合わせだけの問題ではないようで、「実は猪木が橋本を嫌っていた」との説も聞かれる。

「猪木信者を堂々と宣言する橋本のことはかわいく思っていても、いかんせんアンコ型のレスラーにエースの座はふさわしくないというのが、猪木の信条だったんです」(新日関係者)

 橋本の体重があと20キロ少なかったならば、いろいろな意味で日本のプロレス史は変わっていたのかもしれない。

橋本真也
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PROFILE●1965年7月3日〜2005年7月11日。岐阜県出身。身長180㎝、体重130㎏。
得意技/爆殺キック、袈裟斬りチョップ、垂直落下式DDT。

文・脇本深八(元スポーツ紙記者)

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