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【不朽の名作】第3回・赤井英和の迫真の演技が感動を生んだ「どついたるねん」

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 俳優・赤井英和がかつて、世界を狙うようなプロボクサーだったことを知っている若い世代の人がどれだけいるだろうか?

 大阪府大阪市西成区出身の赤井は、少年時代、ケンカに明け暮れ、「ケンカで負けたことはない」という伝説ができるほど、その名が知れ渡っていた。浪速高等学校に進学した赤井はボクシングを始め、3年生の時にはライトウエルター級で、インターハイ、アジアジュニアアマチュアボクシング選手権を制し、近畿大学に進んだ。大学時代は80年モスクワ五輪を目指したが、補欠にとどまる。日本が同五輪出場を辞退し、五輪への道が完全に断たれたため、赤井は80年9月、愛寿ボクシングジム(現グリーンツダボクシングジム)入りし、プロに転じた。

 赤井はジュニアウエルター級で全日本新人王を獲得。そのファイトスタイルは典型的なインファイトの攻撃型で、デビュー戦から12連続KO勝ちの偉業を達成。“浪速のロッキー”と称され、その試合は全国ネットでも中継されるようになり、またたく間に全国区の人気者となる。その一方、「赤井のボクシングはケンカボクシング」と批判する専門家もいた。

 83年7月7日、WBC世界スーパーライト級王者のブルース・カリーに挑戦するも、7回TKO負けで世界王座奪取はならず。そして、再起戦となった85年2月5日、格下の大和田正春と対戦するが、まさかの7回KO負け。意識不明に陥った赤井は急性硬膜下血腫、脳挫傷と診断され、開頭手術を受けた。極めて危険な状態だったが、手術は成功し、奇跡的に回復。しかし、ドクターストップがかかって、引退を余儀なくされ、世界を獲ることなく現役生活を終えた。

 引退後は母校・近大でボクシング部のコーチをするなどしていたが、88年7月公開の映画「またまたあぶない刑事」で俳優デビュー。そして、赤井を主役とした映画が制作されることになったのだ。それが、「どついたるねん」で、87年9月に出版された赤井の自伝「浪速のロッキーのどついたるねん−挫折した男の復活宣言」(講談社)がベースになった。

 監督・脚本を手掛けたのは、後に「北のカナリア」などで名を上げた阪本順治で、荒戸源次郎事務所の作品として発表された。ところが、映画館で上演することができず、当初は原宿の特設テントでの上演だった。その後、同映画は口コミで評判となって、89年11月に待望の劇場公開にたどりついた作品なのだ。大ヒットした同映画は、同年度の「第32回ブルーリボン賞」で、「利休」(三國連太郎主演)、「あ・うん」(高倉健主演)などを抑えて、見事「作品賞」を受賞。まさに、インディーズレベルから頂点まで駆け上がったのだから痛快というしかない。

 作品の内容は、ナショナルボクシングジム所属のプロボクサー・安達英志(赤井)が、イーグル友田(大和田)との試合で、実話通りにKOされ、昏睡状態に陥り開頭手術を受ける。現役続行ができなくなった安達はジムを飛び出して、北山次郎(美川憲一)が資金を出す形で、安達ボクシングジムを設立。古巣の後輩ボクサー・清田さとる(大和武士)を引き抜くなど、ジム生を集めて、後進の指導にあたる。ジムには元日本ウエルター級王者の佐島牧雄(原田芳雄)が押し掛けて、コーチに就任。しかし、各自に合った指導をする左島に対し、会長の安達は自身のインファイトボクシングを強要し、ジム生に手を出す横暴ぶり。清田は母親に連れ戻され、「分からんヤツは出て行け」との安達の言葉に、不満を抱えていたジム生は全員去ってしまい運営不能に陥る。

 途方に暮れた安達は左島とともに、ナショナルジムを訪れ、現役復帰を懇願。主治医を脅迫し、偽の診断書を書かせた安達はボクサーライセンスを再取得。晴れて、復帰戦を行うことになったのだが、対戦相手は原田ボクシングジムに移籍していた後輩・清田だった。減量に苦しみ、コーチの左島には逃げられ、恐怖と闘いながら、試合に向かう安達の前に現れたのは、引退に追い込むことになった友田だった。友田は網膜剥離のため、ボクシングを断念したことを報告する。

 セコンドに就いた会長・鴨井大介(麿赤児)、会長の娘・貴子(相楽晴子)に「タオルは投げるな」と告げていた安達だったが、その劣勢に、たまらず貴子がタオルを投入。レフェリーが試合を止めた瞬間、安達の左のパンチが清田の顔面にヒットしダウンしたところで映画は幕を閉じる。おおむね、赤井の実話に基づいた映画だが、自身のジムを開設したり、現役復帰したりする点はフィクションだ。

 それでも、当時、現役の日本ミドル級王者だった大和(清田役)と、危険を承知でスパーリング、試合のシーンの撮影に臨み、素人では到底出せない迫力を醸しだした点は圧巻。また、赤井は後ろ姿ながら、フルヌードを何度も披露。鍛え抜かれた肉体美は、男でも惚れ惚れするほどだった。その後、大増量して、今や「RIZAP」のお世話になるなど、想像もできなかった。

 リアルな世界では、赤井と深い因縁がある大和田(友田役)が出演し、映画の世界で過去を水に流すシーンは、ボクシングファンの涙を誘ったに違いない。その大和田は87年12月に大和と対戦し、日本ミドル級王座を防衛した後、網膜剥離でタイトルを返上し、引退。そのベルトを王座決定戦の末、奪取したのが大和。この2人にも複雑な人間模様が背景にあったのだが、この映画で、それも氷解された気がする。

 予算がなかったため、著名な出演者は原田、相楽、美川くらいであったが、それでも構成や迫力は抜群。コーチ役を演じた原田の演技力は、さすがに秀逸であり、作品に箔を付けた。赤井にとって、「どついたるねん」は2本目の映画出演、初の主演作で、当時は優れた演技力があるとは思えなかった。だが、ボクシングをやめ、俳優という世界に身を投じ、まさに役者人生を懸けて臨んだこの映画で、鬼気迫る迫真の演技を披露した。

 同映画での演技が評価され、赤井は「第35回キネマ旬報賞」新人男優賞など数々の賞を受賞。その後は、映画、ドラマで活躍し、NHK大河ドラマなどに起用されるまでに成長。95年度には「119」(主演作)で「第18回日本アカデミー賞」優秀主演男優賞、01年度には「十五才 学校IV」で「第24回日本アカデミー賞」優秀助演男優賞を受賞するまでになった。自身の自伝に基づいたボクシング映画ということもあっただろうが、「どついたるねん」をきっかけに、赤井は役者として大成した。ボクシングでは世界のベルトを獲ることはできなかったが、役者の世界ではチャンピオンになったといってもよかろう。

 また、助演女優の相楽は95年に米ロサンゼルスに移住。米国人男性と結婚し、現在はハワイに在住。タレント業は長らく休止しており、その姿を見ることはできないだけに、その意味でも、この映画は貴重な作品だ。

(坂本太郎)

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