昨年、テレビ朝日系で放送された『プロレス総選挙』においても、ハンセンは外国人選手でトップとなる10位に選ばれている。
しかし、日本においては絶大なる人気を誇りながらも、母国アメリカではいま一つだったとの印象も拭えない。キャリア初期からWWF王座に挑戦したり、後年にはAWA王座を獲得したりと、トップクラスの扱いを受けた時期もあったが、結果的に大ブレイクには至らなかったというのが実情であろう。
「一つには日本が主戦場となり、スケジュール面でアメリカに定着することが難しかったということはあるでしょう。また、アメリカ人からすると、ハンセンに対する違和感もどこかあったようです」
こう語るのはアメリカのマット事情に詳しいプロレスライター。違和感とはどういうことか。
「テキサス出身だからカウボーイのキャラクターを選んだというのですが、あの透けるような白い肌や明るい金髪、そして何より“ハンセン”という名前がいかにも北欧系移民のそれで、カウボーイに扮しても感情移入しづらいんですね」
実際、ハンセンはデンマーク移民の系譜にあり、ハンセンという姓が最もポピュラーなのはノルウェーだが、デンマークでもトップ3に入るといわれる。
「顔つきもやっぱり北欧風で、南部の荒くれ者のイメージとは異なります。アメリカのファンからするとそんなハンセンのカウボーイ姿は、例えるなら、日本人がハーフタレントの演じる侍を見るような感覚だったのでは?」(同)
また、ハンセンは「自分がヒール(悪玉)かベビー(善玉)か、さほど意識していなかった」と引退後に語っており、そういうところも善悪の区別がはっきりとした米国マット事情にそぐわなかったようだ。
「だから、カウボーイのギミックにしてヒールかベビーかというキャラ付けにしても、ぶっちゃけ自己演出においては二流だったかもしれませんね」(同)
ただ、日本のファンはそうしたアメリカ的な感覚が薄いため、ハンセンのファイトスタイルそのものを受け入れた。それが大成功につながったともいえる。
「例えばストンピングにしても、当てる場所を意識しながら手加減しているように映るレスラーが多い中、ハンセンは急所も何も関係なく踏みつぶさんばかりに放っていく。そこが真剣勝負志向の強い日本のファンにマッチしたのでしょう」(スポーツ紙記者)
実は極度の近視で加減が利かず、闇雲に技を放っていたところもあるようだが、これが全力ファイトとして歓迎されたのだ。
初来日は'75年の全日本プロレス。当時はウエスタン・ラリアットという代名詞こそ誕生していなかったものの、がむしゃらなファイトスタイルはほぼ確立していた。だが、エンタメ志向の強いジャイアント馬場は、これに対して「馬力だけで不器用」と低評価を下したという。
しかし、'77年の再来日で新日本プロレスのマットに闘いの場を移すと、ハンセンは一気にブレイクを果たすことになる。
「もとよりハードヒットだったハンセンは、'76年のWWF王座戦でブルーノ・サンマルチノを故障させ、全米マット界で“壊し屋”の烙印を押されてしまった。干されて仕事場を失っていたとき、これを全面的に受け入れたのがアントニオ猪木でした」(同)
ハンセンのファイトを“過激さの象徴”と受け入れた猪木は、すぐさま外国人エースに抜擢。ウエスタン・ラリアットを“サンマルチノの首を折った(実際はボディスラムの失敗)危険な必殺技”と喧伝すると、自らそれを真正面から食らってみせた。
その後は、水を得た魚のごとく躍進したハンセン。古舘伊知郎による“ブレーキの壊れたダンプカー”なるフレーズは、その不器用さまでも持ち味とし、善悪の枠を超えた絶対的強者の“不沈艦”として君臨することとなった。
「日本での人気爆発を受けて、'81年にはアメリカでもボブ・バックランドのWWF王座に連続挑戦していますが、そこで定着できなかったのは、やはりアメリカのファン感情に合わなかったのでしょう」(前出・プロレスライター)
しかし、その一方、日本における人気上昇ぶりは天井知らずで、全日本へ移籍した後の'83年には、PARCOのCMキャラクターにも起用されている。
「ラリアットを放つ際の一撃必殺の切れ味は、時代劇の剣豪にも通じるものがあり、その点でも日本のファンにはなじみやすかったのでしょう」(同)
ラリアットをめぐる左腕殺しのストーリーが、類いまれな緊張感を生み出したのも、そのすごみがあってこそ。余人にはなかなか真似のできない、ハンセンならではの“至芸”であった。
スタン・ハンセン
1949年8月29日、アメリカ・テキサス州出身。身長192㎝、135㎏。得意技/ウエスタン・ラリアット、エルボー・ドロップ。
文・脇本深八(元スポーツ紙記者)