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田中角栄「怒涛の戦後史」(9)恩師・草間道之輔(下)

 田中角栄が「私の人生には三人の先生がいた」と公言してやまなかったそのうちの一人、田中の母校である新潟の二田尋常高等小学校の元校長・草間道之輔は、演説する田中のそばにいて、内心「これではとても当選はかなわない」とガックリしていた。

 昭和21(1946)年4月、田中は戦後第1回の総選挙に満27歳で初出馬した。しかし、地元では東京で一山当てた「成金」程度の見方しかなく、県下の教育界に影響力のあった人格者の草間に三拝九拝の揚げ句、応援を願ったものだった。

 なにしろ戦後すぐのことゆえ、他候補はヨレヨレの国民服姿で演壇に立つのだが、カネのある田中のみはモーニングに威儀を正した異色ぶり。だが、威勢のいいのは「若き血の叫び」という演題だけで、その中身は惨憺たるものだった。

 このちょびヒゲをたくわえた進歩党の新人候補は、「に、に、日本進歩党公認の田中角栄であります!」とドモリ気味に口を切ったところまではよかったが、満員の聴衆を前にあとの言葉が出てこないのである。緊張すると子供の頃からの吃音癖が顔を出し、ますます言葉に詰まるのだった。顔を紅潮させ、絶句する候補はヤジの嵐に見舞われた。

「なんだ、そのヒゲはッ。おめぇ、本当に20代かよ!」
「チョンガリ(浪曲)が得意だそうだが、演説はええからひと節やってみれ!」

 いよいよ言葉に詰まる中、振り絞ってのそれは「み、皆さん…。新潟と群馬の境に三国峠がありますです。そ、そこを切り崩してしまえば、もはや越後に大雪は降らなくなり、苦しむことはなくなるのであります。切り崩した土砂は、に、新潟と佐渡の間を埋め、陸続きにすればええんであります!」と、後世の語り草になっている伝説的“政見”の披歴だった。

 しかし、聴衆からすれば大ボラに近く、やはりヤジの追撃であった。
「おめぇ、ナニ言ってるんだ。バカタレッ」
「すぐ、やってみろや。引っ込めッ」

 さすがに、田中は逃げるように壇上から去り、冒頭のように草間がお手上げになるのはもっともだった

 また、のちに田中の圧倒的票田となった農民層も、たとえ街頭演説でも集まるのはパラパラ、通りすぎる農民に田中が手を振っても、アカンベーをして去る者もいたという具合だった。

 こうした絶望的な候補を傍らに、演説会場の草間はそれでも目いっぱいの応援弁士ぶりで、聴衆にこう訴えかけた。

「この田中君は成績すこぶる優秀のうえ、誰よりも親孝行であった。吃音に苦しんでおるが、必ずや皆さんのお役に立てる人物であることを、私が保証します」

 しかし、このときの8議席を争う大選挙区制〈新潟2区〉の選挙結果は37人中11位で、最下位当選者まで7000票ほど届かずの落選。時に地元新聞は、「田中候補は健闘したものの農民層へ食い込めなかった」と書いたのだった。

★報いた「人材確保法」の制定

 落選はしたが、いささかの手応えを感じた田中は、折から翌22年4月に衆院が解散、総選挙となったのを機に、再び出馬した。このときから選挙区制が変わって中選挙区制となり、田中のそれは〈新潟3区〉(定数5)となった。

「選挙戦の戦法は、第1回目とはまったく変わった。企業など組織を固める一方、弱点とされた農民層の支持獲得に全力投球した。一軒一軒、とくに山間部の農家を回り、これからの農業のあり方を説いていった。演説も『これからの日本は、家族が中心でいかなくてはならん』などとかなりまともになり、地元民から受け入れられるようになった。草間先生は、ここでも田中の支援に回っていたが、草間先生がいることで、田中にはハクがついたと言えた」(田中の後援組織「越山会」の古老幹部の証言)

 この2回目には民主党から出馬し、田中は12人中3位で、晴れて衆院議員としてのバッジを着けることになったのである。

 振り返れば、田中は二田尋常高等小学校時代、この草間からその後の人生を決定付ける「指針」を植えつけられていた。

「人間の脳は、多くのモーターの集まりである。10個か15個回せば生きていけるが、努力すれば何千個も動かせるようになる。そのためには勉強することだ。暗記することだ。これしかない。われわれだってモーターをたくさん回せば、野口英世になれるんだ」

「人間の頭脳は、無数の印画紙の倉庫になっている。強く感じれば、印画紙は強く感光する。弱ければ、映像もあいまいになってしまう。一度、露出された映像は死ぬまで残ることになるんだ」

 後世に伝えられた田中の「驚異の記憶力」は、この幼少期に草間の言葉を胸に刻み、ひらすら勉学に励んだ結果であった。その記憶力が、実力政治家・田中角栄の生涯の推進力になったと言っていい。

 田中は首相になったあとの昭和49年2月、「子供を育てるにもかかわらず、教師の給料は安すぎる。これでは人材が集まらない」として、それまで政府が渋っていた教師の待遇改善のための「人材確保法」を制定。せめて恩師に報いたということでもあった。

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【著者】=早大卒。永田町取材49年のベテラン政治評論家。抜群の政局・選挙分析で定評がある。著書に『愛蔵版 角栄一代』(セブン&アイ出版)、『高度経済成長に挑んだ男たち』(ビジネス社)、『21世紀リーダー候補の真贋』(読売新聞社)など多数。

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