また、ケンカ最強との呼び声も高く、リング外では選手たちににらみを利かせていたとも言われている。
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魔界倶楽部(プロレス結社魔界倶楽部)が結成されたのは2002年8月のこと。前IWGP王者の安田忠夫とパンクラスから移籍した柳澤龍志、魔界1号こと平田淳嗣の3人がオリジナルメンバーである。
その後は村上一成や柴田勝頼、元リングスの長井満也など格闘技寄りのメンバーが加わって、ケン・シャムロックやボブ・サップらが来日参戦した際の受け皿にもなった。ただ、こうしたメンバーたちよりもファンに強いインパクトを与えたのが、総裁の星野勘太郎である。
“プロレス冬の時代”と言われたこの時期でも、「ビッシビシ行くからな!」の決め台詞には、聞き覚えがあるというファンは少なくないはずだ。
「当時、総合格闘技に執心していたアントニオ猪木の意向をくみ、格闘系の選手たちが集められていたが、それを売り出すためにパッケージにして、プロレスのできる魔界1号と2号(当時KAIENTAI DOJOに所属していた筑前りょう太)に脇を固めさせた。かつてのマシン軍団にあやかって一部選手にマスクをかぶせ、若松マネジャーの役割を星野さんに依頼したというのが全体のフォーマットです」(新日関係者)
1995年に引退した後は神戸でプロモーターをしていた星野だが、黒いスーツに白ネクタイをビシッと決めたダンディーな出で立ちや、乱闘になれば自ら率先してパンチを繰り出すその姿は、ともすればリング上の選手たちよりも真剣に映ったものだった。
もともと強烈な猪木シンパで、プロモーターとしても猪木が主催する興行では積極的にチケットをさばいていたというから、猪木絡みのアングルに抜擢されたとなれば頑張るのも当然か。
「クセの強い面々がまがりなりにも軍団として成立したのも、信望の厚い星野総裁があってこそ。地方大会の後にはメンバーを連れて飯を食わせる親分肌で、あとはやっぱりその腕っぷしですよ」(同)
★あの前田日明とガチの乱闘騒ぎ
1961年の日本プロレス入門前にはプロボクサーを目指していたという腕自慢で、ケンカ最強との呼び声も高かった。
ロープに振った相手にフライング・ヘッドバットをぶちかまし、ヘッドロックに捉えてマシンガンパンチを浴びせる。小さな体から繰り出す直線的かつ明快なファイトで、若手時代は“突貫小僧”のあだ名で親しまれた。
1967年のアメリカ遠征時には、山本小鉄とタッグチーム「ヤマハ・ブラザーズ」を結成。テキサス州、テネシー州などで人気を博し、それぞれ地元のタッグタイトルも獲得している。なお、このコンビ名は“小型ながらパワフルで機動性に優れている”と、当時のアメリカで知られていたヤマハのバイクにちなんで命名されたものであった。
「年齢は小鉄さんが2つ上ながら、入門は星野さんのほうが2年早い。控室だと星野さんの言うことに、小鉄さんが『ハイ、ハイ』と従っていましたね」(同)
鬼軍曹として若手から恐れられ、解説者やレフェリーとしても強面の印象が強い小鉄が、先輩とはいえ年下の星野に頭が上がらなかったというあたりからも、星野の裏の実力者ぶりがうかがえよう。
帰国後の1970年には猪木とのコンビで、第1回NWAタッグリーグ戦で優勝を果たした(決勝の相手はニック・ボックウィンクル&ジョニー・クイン)。
同じ韓国籍の大木金太郎との関係があってか、新日本プロレスへの加入は日プロ崩壊後の1974年。
「その頃の猪木のビッグマッチの映像を見直すと、花道で猪木の後ろに付き添い、鋭い眼光を飛ばす星野の姿が必ずと言っていいほど映っています。猪木のボディガードとしては藤原喜明が有名ですが、その元祖が星野でした」(プロレスライター)
リング上では中堅のポジションに甘んじ、新日において大舞台を踏むことはなかったが、時おり“裏の顔”を見せた。
「上り調子の新人や外国人が新日マットを舐めないようにと、一発くらわすのが星野の役回りだったようで、ダイナマイト・キッドとの激しい攻防は映像に残されています」(同)
UWF軍との対抗戦でも前面に立った星野は、あの前田日明を相手に乱闘騒ぎを起こしている。
「テレビ中継もない地方大会のタッグマッチで、星野が前田にガチのパンチを食らわせたところ、それをプロレス的な仕掛けと思った前田は“もっとやってこい”と挑発した。これに星野がブチ切れて、試合後にデッキブラシを片手に控室まで殴り込んだんです」(同)
稽古では小鉄、試合では星野が目を光らせ、新日の黄金期を支えていたというわけである。
星野勘太郎
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PROFILE●1943年10月9日〜2010年11月25日。兵庫県神戸市出身。
身長170㎝、体重105㎏。得意技/パンチ、フライング・ヘッドバット。
_文・脇本深八(元スポーツ紙記者)